火山,43巻,5号,403-407頁,1998年
早川由紀夫・小山真人
Dates of Two Major Eruptions from Towada and Baitoushan in the 10th Century
Yukio Hayakawa and Masato Koyama
1.はじめに
東アジアで10世紀に相次いで起こった二つの大噴火の年月日を以下で論じる.それらは十和田湖と白頭山で起きた噴火である.その後,前者を上回る規模の噴火は日本では起こっていない.後者を上回る規模の噴火も世界で起こっていない.それぞれが,日本と世界の過去2000年間で起きた最大級の噴火である.
Fig. 1 Index map. Distributions of the Baitoushan-Tomakomai (B-Tm) ash and theTowada-A ash are after Machida and Arai (1992)
2.十和田湖の噴火
十和田湖の南,発荷(ルビ:はっか)峠の地表をつくる厚さ2mの毛馬内(ルビ:けまない)火砕流堆積物が,十和田湖の噴火堆積物の最上位を占める.この堆積物は,谷底だけでなく尾根の上にも薄く広く分布している.毛馬内火砕流は猛スピードで四周に広がり,噴火口から20km以内のすべてを破壊しつくした(Hayakawa,
1985).
疾走中の毛馬内火砕流の上には火山灰を多量に含む熱いサーマル雲が立ち上がり,それはやがて上空の風で南へ押し流された(Fig.
1).十和田湖に南から突き出している二本の岬のうち,東側の御倉(ルビ:おぐら)山は噴火口に栓をした溶岩ドームである(大池,1976).この噴火のマグニチュードは5.7であり,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である(早川,1994).
秋田県の米代川流域では,洪水のあとしばしば平安時代の家屋・家具・土師(ルビ:はじ)器・須恵(ルビ:すえ)器などが出土してきた.菅江真澄(ルビ:すがえますみ)(1754-1829)は文化十四年(1817年)の洪水で出現した埋没家屋のスケッチをかいている.平田篤胤(ルビ:あつたね)(1776-1843)は『皇国度制考』の中で,出土した六角柱の暦(平山・市川,1966)の復元図を示している.十和田湖最後のこの噴火が平安時代に起こったことは以下に述べるように出土遺物から確かであるが,この噴火を記した古記録は,現地では,みつかっていない.平山・市川(1966)はこの地変をシラス洪水とよび,秋田県に伝わる八郎太郎伝説に結びつけた.
白鳥(1980)は,仙台市の陸奥国分寺跡において,古記録から870年と934年に対応することがわかる遺物層に挟まれてこの火山灰がみつかったと報告している.また秋田県鷹巣町の胡桃館(ルビ:くるみだて)遺跡では,902年に形成された年輪をもつ杉材(奈良国立文化財研究所,1990)がシラス洪水の堆積物中からみつかった.
京都延暦寺の僧侶によって書かれた『扶桑略記』の延喜十五年条に次の記述がある.「七月五日甲子,卯時,日无暉,其貌似月,時人奇之.十三日,出羽國言上雨灰高二寸諸郷農桑枯損之由」
延喜十五年七月五日(915年8月18日)の朝日に輝きがなくまるで月のようだったので,京都の人々はこれを不思議に思った.七月十三日(915年8月26日)になって,「灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ」と出羽の国から報告があった,と書いている.なお,西暦表記には,早川・小山(1997)の勧告に沿って,ユリウス暦を用いた.
大森(1918)は,この噴火記録を「或ハ鳥海山ノ噴火ナランカ」と考えた.この解釈は長い間支持されてきたが(たとえば村山,1978),1981年になって,十和田湖から噴出したテフラの調査をした町田・他(1981)が,この古記録は鳥海山ではなく十和田湖の大噴火を記したものではないかと初めて指摘した.
鳥海山では,915年ころに大きな噴火があったことを示す地質学的証拠が知られていない(林,1995).そのときすでに大和朝廷の支配下にあった鳥海山神社の位階はこの噴火で上がっていないので,これは当時朝廷の支配下になかった北方の火山の噴火であると考えるほうがもっともらしい.
中緯度地方の降下火山灰は上空の偏西風に流されて噴火口の東に分布することが普通である.しかし十和田湖のこの火山灰は南に分布している.この分布異常は,上空の西風が弱まる夏期に噴火が起こったと考えると説明しやすい.三陸沖を台風が北上中だったなどというシナリオが考えられる.『扶桑略記』の記述が晩夏であるのは,それを十和田湖の噴火とみる考えと矛盾しない.町田・他(1981)の指摘は適切であるといえる.
京都は十和田湖から800kmはなれている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流で100km/時程度であり,北風の場合はもっと遅いから,京都から見た日の出の陽光に異常をもたらすためには,その前日(915年8月17日)に噴火のクライマックスが起こっていなければならないだろう.
Stuiver and Pearson (1993)によると,915年に対応する放射性炭素年代は1140 yBPである.毛馬内火砕流堆積物中の炭化木から,1280±90yBP(GaK-548;平山・市川,1966),1470±100
yBP (GaK-10045;Hayakawa, 1985),1090±100 yBP (GaK-10046;Hayakawa,
1985) が報告されている.
なお,『扶桑略記』に「(延喜十九年)七月五日庚午(919 年 8 月 3 日),酉刻,日色赤黒,其光不明,又昨今之月色不似月之光」という日色・月色異常事件が書かれているが,十和田火山の噴火と関係があるかもしれない.
3.白頭山の噴火
青森県内の十和田湖915年火山灰の上には,白頭山 Baitoushan から日本海をわたって飛来してきた火山灰(苫小牧火山灰)が認められる(町田・他,1981;Machida
and Arai, 1983).両テフラの間にはクロボクまたは泥炭が約3cm堆積している.苫小牧火山灰は,アルカリ長石を含むというきわだった特徴をもつ.北海道・青森県・秋田県北部のほか,八戸沖および日本海北部の海底にも見いだされる(Fig.
1).
白頭山は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国の国境にあり,中国では長白山 Changbaishan とよばれている.長白山の地表直下では,次のような堆積物の積み重なりが観察される(Machida
et al., 1990):上位より,白山 Baishan 火砕流/円池 Yuanchi 降下軽石/両江 Liangjiang
ラハール/長白 Changbai 火砕流/白頭 Baegudu 降下軽石/二道白河 Erdaobaihe 岩なだれ(なお,町田・光谷(1994)は上の層序を若干修正し,白山火砕流を長白火砕流の上部に含め,円池降下軽石を10世紀ではない後世の噴火堆積物としている.また,町田・白尾(1998)は,苫小牧火山灰を長白火砕流から立ち上った灰かぐらと考えている).白頭山の10世紀噴火のマグニチュードは7.4であり,過去2000年間では,インドネシア・タンボラ火山の1815年噴火(M7.1)をしのいで,世界最大級である.
日本列島の上に降り積もった苫小牧火山灰の厚さは5cm以下であるから,北海道・東北北部が受けた被害は軽微なものだったろう.しかし,噴火規模・噴火様式から考えて,当時の白頭山周辺地域が受けた被害は甚大であったと想像される.Machida
et al. (1990)は,少なくとも4000km2の森林がこの噴火によって破壊されたとみている.
青森県小川原湖の堆積物中に,厚さ13cmの泥を挟んで,苫小牧火山灰と十和田湖915年火山灰があることを福澤・他(1998)は認め,その間に22枚の葉理を数えた.この葉理が年縞であるとみなすと,苫小牧火山灰は937年に降ったことになる.しかし泥の堆積速度が一様だったと考えると,13cmの泥の堆積時間として約40年が期待され,22年では短すぎる(池田・他,1997).
『高麗史』の世家巻第二の高麗定宗元年(946年)条に「是歳天鼓鳴赦」,および志巻第七に「定宗元年天鼓鳴」とある.また,『朝鮮史』は同年条に「是歳,天鼓鳴ル.仍リテ赦ス」と記し,その引用元として『高麗史』および『高麗史節要』を挙げている.天にかなりの鳴動があったため,罪人の大赦をとりおこなったのだろう.鳴動が聞こえた月日は,いずれの史料にも記されていない.鳴動の聞こえた場所にかんする記載もないが,大赦をおこなうほど深刻に受けとめられたのであるから,おそらく高麗の都であった開城(Kaesong,現在のソウルの北西)付近で為政者らが直接体験した事件であったと想像される.当時の高麗の領土は白頭山のある威鏡道地方に及んでなく,火山灰の分布軸からも外れている.このため,鳴動の原因を知るには至らなかったようだ.なお,『高麗史』と『朝鮮史』をみる限り,10世紀前半に他の鳴動・降灰事件の記録は見られない.
『高麗史節要』の該当部分
この年,『興福寺年代記』に「(天慶九年)十月七日夜白灰散如雪」とあり,946年11月3日に(おそらく奈良に)白い火山灰が降ったことがわかる.奈良付近に灰を降らすのは九州の火山でもよいが,白はアルカリ流紋岩である白頭山の火山灰を期待させる.
翌年,『貞信公記』に「(天暦元年正月)十四日,空中有聲如雷鳴」とあり,『日本紀略』に「正月十四日庚子,此日空中有声,如雷」とある.奈良降灰の3ヶ月後の947年2月7日に京都で鳴響が聞こえた.苫小牧火山灰が947年2月7日に降下したと考えれば,前述した小川原湖の泥の堆積速度の一様性はほぼ満足される.
真東へ鋭く伸びる苫小牧火山灰の分布軸は,偏西風が強まる冬季に噴火したことを想像させる(Fig. 1).『貞信公記』と『日本紀略』がいう季節(2月7日)は,火山灰分布の特徴が要求する噴火季節条件をよく満たす.長白火砕流堆積物中から得られた炭化木の最外年輪の組織観察からも,噴火時期が冬期であったことが推定されている(町田・光谷,1994).
946年11月3日に奈良に降った灰は,噴火初期の爆発のひとつで高空にもたらされた火山灰が,秋の北西風にのって奈良に達したのではないだろうか.そのあと偏西風が強まった真冬に本格的噴火が起こり,北海道と青森県・秋田県北部に降灰したと考えることができる.長白火砕流堆積物の直下にある白頭降下軽石の分布軸は東南東方向とされており(町田・白尾,1998),奈良に降った火山灰に該当する可能性もある.
Stuiver and Pearson (1993)によると,946年に対応する放射性炭素年代は1140yBPである.長白火砕流堆積物中の炭化木から1050±70yBP,1120±70yBP,1410±80yBPが報告されている
(Machida et al., 1990).
この時代の日本史料に残る他の降灰・鳴動・大気異常事件として以下のものがある.『興福寺年代記』の延長七年条に「四月五日(929年5月16日)巳刻自西北方煙雲満炭降」とあるが,「炭降」が黒い灰をイメージさせるので,白頭山の噴火との関係を認めにくい.ただし,『扶桑略記』に「(延長八年五月)廿四日丁亥(930
年 6 月 23 日),如虹色繞日」と書かれた日色異常事件,同じく『扶桑略記』に「(承平)四年閏正月十五日(934年3月3日),巳時,空響両度,似雷」,および『日本紀略』に「(天慶七年正月)廿三日(944年2月19日)丙申,子刻,振動,聲在上」と記された空中鳴動事件は,白頭山の噴火との関係を否定できない(注).
『扶桑略記』に書かれた915年8月17日の出羽国降灰が十和田湖からではなく白頭山からである可能性は,以下の理由から支持しにくい.1)苫小牧火山灰は出羽国(秋田県の大部分と山形県全域)にほとんど堆積していない.2)苫小牧火山灰の分布が示す強い偏西風は8月に期待しにくい.3)915年ころの朝鮮半島に,噴火を示唆する天変地異記録がみつからない.
町田(1992)は,7世紀に成立して一時はアジア大陸の日本海沿岸地方を広く支配し栄えた渤海が,この噴火をきっかけとして衰亡への道をたどったかもしれないという仮説を唱えた.しかし,渤海の滅亡年は926年と考えるのが史学上の通説であるので,本論の見解にしたがえば,白頭山の噴火は渤海の滅亡後に起きたことになる.
これまで畿内に分布する地層や遺跡から歴史時代の火山灰が発見されたという報告は筆者らの知る範囲にないが,今後ここに取り上げた降灰記事を裏づける視点に立った調査を進める必要がある.調査地としては,湖・溜池の堆積物や泥炭地などが有望であろう.
4.まとめ
史料に書かれた記録にもとづいて火山学的に検討した結果,以下の結論が得られた.十和田湖の噴火クライマックスは915年8月17日だったと思われる.白頭山の噴火クライマックスは947年2月7日で,噴火開始は946年11月(あるいは944年2月)だったと思われる.
謝 辞 『興福寺年代記』についての情報や意見をくださった田良島 哲さん,および小論の改善に有益な意見をくださった石橋克彦さんと匿名査読者に感謝します.
(注)このほか武者(1941)は,『貞信公記』の天慶元年三月十四日(938年4月16日)条「十四日,元方・有聲・在衡・朝綱・在昌・在躬朝臣等来云」の「元方・有聲」部分を鳴動記事と解釈しているが,大日本古記録『貞信公記』(岩波書店)には,元方・有聲は当時の公卿である藤原元方・藤原有聲とする注釈がある.したがって,この記事は鳴動を記録したものではないと考える.
付.史料解題
『興福寺年代記』こうふくじねんだいき
奈良興福寺において書き継がれた大事件(神代〜慶長二十年(1615年)五月)を編年体でまとめた体裁をもち,別名を『皇統年代記』という.表題や体裁はよく知られた『興福寺略年代記』に似るが,『興福寺略年代記』にない多くの天変地異記事を含んでおり,他の内容や表現も異なるため独立した史料と考えられる.古写本はお茶の水図書館成簀堂文庫にあり(荻野,1987),興福寺大乗院に伝えられた可能性があるため,一定の史料価値をもつと考えられる.明治四十一年に文科大学史誌叢書として出された謄写翻刻本がある.
『高麗史』こうらいし
朝鮮の高麗王朝(918-1392)のことを記した紀伝体の史書.李氏朝鮮の鄭麟趾らによって編纂され文宗元年(1451年)に成立した.成立の際,高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書・書籍が参照されたが,それらの大部分は現存しないので,現在では『高麗史節要』と並ぶ高麗時代の基本史料とみなされている.国書刊行会から出された刊本がある.
『高麗史節要』こうらいしせつよう
高麗王朝の編年史であり,李氏朝鮮の春秋館によって『高麗史』とは独自に編纂され,文宗二年(1452年)に成立した.『高麗史』と並んで高麗時代を知る基本史料である.学習院大学東洋文化研究所が刊行した影印本があるが,筆者らは入手できていない.
『朝鮮史』ちょうせんし
朝鮮の古代より李朝太王三十一年(1894年)に至る編年体の史書.朝鮮総督府朝鮮史編修会によって編纂され,1932〜38年に刊行された.東大出版会の刊本がある.
『貞信公記』ていしんこうき
関白大政大臣となった藤原忠平(880-949)の日記.ただし,現存するのは忠平の息子によって抄出された延喜七年(907年)〜天暦二年(948年)分の抄録であり,『貞信公記抄』とも呼ばれる.10世紀前半の事件や政情を知るための,数少ない基本史料とされている.岩波書店刊行の大日本古記録に収められている.
『日本紀略』にほんきりゃく
平安末期に成立した神代〜長元九年(1036年)五月の編年体の史書.撰者不明だが私撰と推定されている.六国史時代についてはおおむね六国史を抄出するが,六国史以後の時代について現存しない史料から編集されたとみられる部分が多く,史料価値が高い.吉川弘文館刊行の新訂増補国史大系に収められている.
『扶桑略記』ふそうりゃっき
11世紀末〜12世紀初めに成立したとみられる神代〜嘉保元年(1094年)三月の編年体の史書.撰者は延暦寺の僧皇円と考えられている.六国史のほか,現存しない史料をふくむ多くの典籍・記録から編集され,六国史が絶えた以降の時代も扱うため,史料価値が高い.吉川弘文館刊行の新訂増補国史大系に収められている.
(以上,独自に執筆した『興福寺年代記』以外は,主として吉川弘文館「国史大辞典」にもとづいて書いた.)
引 用 文 献
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