日本火山学会1995年秋季大会講演要旨(新潟)

史料と堆積物から知る浅間山1108年噴火と1281年噴火

早川由紀夫・中島秀子(群馬大教育)

The eruptions of Asama in 1108 and 1281 evaluated from ancient literature and deposits

Yukio HAYAKAWA and Hideko NAKAJIMA (Gunma University)

『中右記』の天仁元年の項に次の記述がある.

天仁元年八月二十五日(1108.10.3)「寅卯時許,東方天色甚赤」

同年九月三日(1108.10.11)「天晴,早旦東方天甚赤,此七八日許如此,誠為奇,可尋知□(「興」の右に「欠」)」

同年九月五日(1108.10.13)「上野國司進解状云,国中有高山,稱麻間峯,而從治暦間(1065-1069)峯中細煙出來.其後微々成,從今年七月二十一日(1108.8.29)猛火燒山峯,其煙屬天沙礫滿國,□わい(「火」の右に「畏」;)燼じん積庭,國内田畠依之已以滅亡,一國之災未有如此事,依希有之怪所記置也.」

同年九月二十三日(1108.10.31)「今日午時許有軒廊御卜,上卿源大納言,俊,上野國言上麻間山峯事」

『中右記』は権中納言藤原宗忠の日記である.京都で書かれた.嘉承三年八月三日(1108年9月11日)に改元して天仁元年になったのだから,この噴火の報告が京都に上がった九月五日は天仁元年だが,この噴火が始まった七月二十一日は嘉承三年である.上野の国で発生したこの事件が京都に伝わるのに一か月半もかかったという事実は,当時の交通事情を考慮しても遅すぎるように思われる.上野の国が著しく混乱して京都への報告が遅れたのだろうか.

この噴火史料は,次のように解釈される.1108年8月29日,Bスコリア下部(M4.5)の噴火があって,前橋にあった国庁の庭に火山灰が厚く降り積もった.これによって上野の国の田畑の多くが使用不能になった.これ以前の浅間山は,治暦年間(1065-1069)に噴煙を細く上げていたが,その後,かすかになっていた.

1か月あまりの休止を挟んで,10月3日から11日まで京都で東方の空が甚だしく赤かった.これがBスコリア上部(M4.5)の噴火に対応するのではなかろうか.Bスコリア上部の分布軸は北東に伸びていて,南東に伸びるBスコリア下部と明らかに方向が違う.もし両噴火の間に約1か月の時間が経過したのなら,この風向きの違いがうまく説明される.上野の国の田畑は浅間山の南東方向に多くがあったから,初めの噴火で使用不能になったこととも矛盾しない.なお,『神皇正統録』には「天仁元年戊子八月十七日(1108.9.25),虚空ニ聲有テ鼓ノ如シ.数日断マス」とあるからBスコリア上部の噴火は9月下旬から始まったと考えたほうがよい.

追分火砕流(M4.8)からのサーマル火山灰はBスコリア下部を整合に覆っていて,Bスコリア上部に浸食不整合で覆われているから,追分火砕流は初めの噴火の最後の段階で流出したのだろう.つまりこの噴火のクライマックスに当たる追分火砕流は1108年8月末もしくは9月初めに発生したと思われる.

10月31日に行われた軒廊御卜こんろうみうら というのは,宮中の渡り廊下で行われる占いのことである.彗星の出現や自然災害が国家に吉であるか凶であるかを判定して,もし凶とでた場合には改元などでそれを予防した.浅間山のこの噴火の場合は改元には至らなかったが,軒廊御卜の対象となった事実は,この噴火が政府に注目されるほど大きかったことを示している.

この噴火のあとまもなく,この地域に再開発ブームが起こって,12世紀中葉には荘園造立ラッシュが訪れた.浅間山1108年噴火は,北関東地域が古代から中世への転換するきっかけとなったといえる(峰岸1992『火山灰考古学』111-127).

他の古記録には,『立川寺年代記』に「天仁元,此年信州浅間峰震動」とあり,『興福寺年代記』に「天仁元年,天ニ聲アテ鼓ノ如ク鳴ルコト数日不断」とある.

Stuiver and Pearson (1993 Radiocarbon 1-23)によると,1108年に対応する放射性炭素年代は950yBPであるが,Bスコリアから980±100yBP(GaK505)と1010±90yBP(GaK506),追分火砕流堆積物から870±80yBP(TK21)が報告されている. 浅間山のBスコリアの噴火は,『古史伝』などの記述を根拠として,1281年6月26日に起こったとかつて考えられたことがあった(荒牧1968地団研専報).しかし新井(1979考古学ジャーナル41-52)は,上に述べた『中右記』の記述と放射性炭素年代値を理由に,1108年説をとる立場を明確にした.Bスコリアが覆う水田遺跡の状況がこの地域で通常7月下旬に行われる「土用干し」のあとに噴火が起こったことを示唆している(能登1988第四紀研究283-296)ことも,Bスコリア噴火が1108年に起こったと考える傍証である.

弘安四年六月九日(1281年6月26日)に浅間が噴火したという記事は,天明三年(1783年)の噴火記録を書いた『浅間大変記』とその類書の冒頭に書かれている.すなわち,それは噴火から500年も後になって書かれた記事である.平田篤胤(1776-1843)の『古史伝』に書かれている記事もたいへんよく似ているから,『浅間大変記』を元に書いたにちがいない.

「浅間山ハ此度初て焼出し候にてもなし.昔弘安四年六月九日の暮方,山より西に黄色之光り移り,同夜四ツ時焼出し,信州追分,小諸より南へ四り余の間灰砂降り,西に海野え続き田中之辺迄今に田地火石おし出し置,北に山麓迄おし出し,其所を石とまりと言習いせり.人生百歳をたもつ者なけれは知らす.」(浅間焼出山津波大変記)

「追分・小諸より南四里余りの間砂灰ふり,大石今にあり,北は山の麓まで押出して,今に此所を石どまりと云う」(古史伝)

史料がいうところの場所のいずれにも,そのような噴火堆積物をいま見つけることはできない.「石とまり」という地名も特定することができない.この噴火史料はまったく信頼がおけないものか,あるいは事実に基づいているとしても,M2以下の小さな噴火を記録したものであろう.


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