『類聚国史』に書かれた818年の地震被害と

赤城山の南斜面に残る9世紀の地変跡

 

群馬大学教育学部*      早川由紀夫,森田 悌,中嶋田絵美

新里村教育委員会       加部 二生

 

The AD 818 Earthquake Described in Ruiju Kokushi, and Its Geologic Evidence

Printed on the Southern Foot of Akagi Volcano

 

Yukio HAYAKAWA, Tei MORITA, Emi NAKASHIMADA

Faculty of Education, Gunma University, Aramaki 4-2, Maebashi, 371-8510 Japan

Nitaka KABE

Board of Education, Niisato Village, Gunma, 376-0123 Japan

 

Conspicuous geologic features such as ground cracks or deposits from debris avalanches and lahars are embedded in the 9th century horizon on the southern foot of Mt. Akagi, a dormant volcano sitting on the northernmost of the Kanto Plain. They are satisfactory correlated with the AD 818 earthquake described in Ruiju Kokushi, however, the causative fault is yet to be discovered.

 


§1.『類聚国史』の記事

北東側の片足を足尾山地に載せて成長した火山である赤城山(1828 m)は,南西側,とくに南側で関東平野に向かって長い裾野を展開している.この斜面を9世紀に激烈な地震が襲った.その被害の様子が,『類聚国史』の弘仁九年七月と八月(8188月〜10月)の条にある(史料1).

 そこには次のように書かれている.弘仁九年七月に東国で大規模な地震が発生した.翌八月には被害をうけた諸国へ朝使を派遣して損害の程度を調査するとともに賑給(米塩の支給)を行い,さらに詔を布告して租調免除,正税による家屋修理の補助および死者のすみやかな埋葬を指示した.当時は疫病が流行しており,九月に入ると朝廷では七月の地震と疫病を天の咎懲・災妖と捉え,国分寺において金剛般若経を転読して除災を図り,未納租税の免除を令した.

この史料は六国史のひとつである『日本後紀』巻二七に掲記されていたが,それは散逸した.さいわい同書の記事を抜粋した『類聚国史』がいま

 

* 371-8510 前橋市荒牧町4-2

電子メール:hayakawa@edu.gunma-u.ac.jp

に伝わるので,それを集英社版『日本後紀』(2003年刊行予定)により示したのが史料1である.原文は漢文であるが,ここでは読みやすさの便のために訓読したものを掲げる.三条からなり,(イ)は地震発生の損害の概略を伝える記事,(ロ)は朝使の派遣と賑給・租調免除等を指示する詔,(ハ)は除災の仏事執行と未納租税の免除を令する詔である.

 (イ)では相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野六国を被害国として挙示している.相模・武蔵・下総は東海道所属,上野・下野は東山道所属であり,国名記載の順序は当時の慣例に従ったものであり,損害の大小とは関係しない.損害の大小に関しては,(ロ)で「上野国等の境,地震災を為し」と指摘していることより,上野国の被害が最大であったとみられる.

 かつてこの地震は,大正関東地震と同様の海溝型巨大地震だと考えられたことがあった.しかし上総と安房の国名がないことと津波に関する記述がないことから,いまは内陸地震だと考えられている(萩原ほか,1982).ところが,当該地域である群馬県内には,相模まで大きな被害を及ぼす地震を発生させる能力をもつ顕著な活断層がみあたらない.この地震は,史料が表現する地震像を現代地震学がまだ説明できていない謎の地震である.

(イ)は七月とあるのみで日付を欠いている.おそらく『日本後紀』には「是月」として記事を掲記していたと考えられる.大地震のような災害が発生したときは,公式令国有急速条により緊急伝達方式である飛駅が使用されて朝廷に報告がなされた.この地震のときは,相模以下の諸国から飛駅により地震の発生が,ついで被害状況の報告等が次々と朝廷へもたらされたはずである.その報告は朝廷に逐一保存されたはずであるが,『日本後紀』の撰者はその報告から日ごとの記事を作文することをさけ,掲記した如く「是月」として一括した文章にしたのであろう.日を欠いていることと『日本後紀』にみえないことを根拠に松田(1991)は,(イ)の記事が『日本後紀』になかった可能性を考えているが,支持しがたい.

 「山崩れて谷埋むること数里なり」とある箇処の「谷」は,写本によっては「或」と書かれている.『類聚国史』仙石家校刊本や新訂増補国史大系本は「谷」を採っているが,尊経閣文庫所蔵古写本・同大永校本等では「或」となっている.松田(1991)は,「谷」ではなく「或」を採用して,「里」が距離の単位ではなく村里を意味すると考えた.いくつもの村里が埋まってしまったほどの想像を絶する被害を出した地震だと解したのである.

たしかに尊経閣文庫古写本は鎌倉期の書写とされるから重視する必要があるが,「山崩れて谷埋むる」なら山と谷が対語となること,六国史にみられる他の地震記事に「山崩れて河涌る」(『日本書紀』天武天皇十三年十月壬辰条),「山崩れて河壅ぐ」(『続日本紀』天平六年四月戊申条)などとある例を参照すると,「谷」のほうがここに相応しい文字だと考えられる.また(ロ)によれば「水潦相仍ぎ」とあり,洪水が何回も発生したことが知られる.洪水は谷が土砂で堰き止められたことにより起こったと考えられるので,やはりここは谷が埋まったとなるほうが状況にも適っている.

そもそも当時は,村落を示す語として「里」を用いることは少なかった.「里」が距離を示す単位だとみると,当時の1里は534 mだから,数里は2 - 3 km程度になろう.赤城山の南斜面には,その程度の規模の谷がいくつもある.

 (ロ)は被害者に対する救済措置の布告であるが,賑給・家屋修理補助・埋葬の指示はおいて,興味深いのが租調免除である.災害による租税免除を規定している賦役令水旱条(水旱は洪水とひでり)によれば,田が五分の損害を被った場合は田租免,七分で田租と調を免除する租調免,八分以上で課役(田租と調庸および雑徭)免と定めている.弘仁九年の地震では租調免除なので,水旱条を適用したとすれば,七分の損害を受けたに等しい被害があったことになる.しかし他の大地震時の免除例をみると,いずれも租調免で終始しており,課役免となっていない(『類聚国史』巻一七一,天長七年四月戊辰条,『続日本後紀』承和八年七月癸酉条,『三代実録』貞観十一年十月十三日条).

租調免と課役免の違いは,力役である歳役・雑徭を前者では免さないのに対し,後者では免除するということである.大規模地震となると官舎や道路ないし他の構築物が被害をうけることが考えられ,当然のことながらそれらの復旧のためには力役が必要となるので,仮に八分以上の損に相当するような被害が出来しても復除(課税免除)を租調免にとどめ,力役確保に努めたのであろうと推考される.とまれ,租調免から大規模地震であることは確かであるが,水旱条を根拠に被害の程を七分とみるのは当らない.

 (ハ)は,地震を自然におこるものではなく天皇の不徳によると述べている.これは,人の心がけが自然の運行に影響を与えるとみる天人感応説に他ならない.中国から伝わった考え方である.

 

§2.赤城山の南斜面に残る地変跡

赤城山の南斜面に展開する新里村・大胡町・前橋市などの市町村で毎年発掘調査される遺跡の数は,百余りに達する.その発掘作業の過程で,9世紀ころに発生したと判断される土石なだれ・洪水・地割れの痕跡がしばしばみつかる.1990年ころ,これらの地変跡が818年地震によるものであるとの考えが地元の複数の考古学者たちによってほぼ同時に唱えられた(たとえば能登ほか,1990;能登,1991;関,1991など).この研究機運の高まりに応じた新里村教育委員会は,86ページからなる資料集『赤城山麓の歴史地震 -弘仁九年に発生した地震とその災害-』を19913月に編集発行した.

以下では,この資料集がまとめられたあとに新里村で蓄積された発掘調査結果を概観する.その過程で,能登らが10年前になした論考を再検討し




1 新里村板橋に露出する9世紀の土石なだれ堆積物.人物の頭の位置が9世紀の地表である.その上に土石なだれ堆積物がのっている.泥基質の中にクロボク・ローム・降下軽石堆積物・溶岩塊などがパッチワーク状に配列していて,これらの土石が一群となって高速で流れてきて生じた堆積物であることがわかる.

 


た.

 

2.1 土石なだれと洪水の堆積物

急斜面の崩壊によって生じた土砂が,新里村内の広い範囲を高速で流下したらしい.谷筋の低所だけでなく,現在尾根になっている高所にもその流れが残した堆積物が分布している.断面で見ると,泥基質の中にクロボク・ローム・降下軽石堆積物・溶岩塊などがパッチワーク状に配列した厚さ数mの地層である.遺跡発掘調査では磯山遺跡や不二山遺跡などでみつかったが,新里村大久保,板橋(図1)などで半恒久的な露頭として堆積物断面を観察することができる.

このような大規模斜面崩壊は激しい地震動によってひき金を引かれたとみるのが,もっとも考えやすい.土石なだれとして,地震直後に一気に大量に流れ下ったのであろう.私たちはこの堆積物を鏑木川流域で確認したが,能登ほか(1990)は早川・粕川・荒砥川流域でも報告している.もしそうであれば崩壊地は一箇所でなく,赤城山の南斜面が随所で崩壊したことになる.『類聚国史』に書かれた「山崩れて谷埋むる」に相当する地層だと考えて間違いないだろう.

土石なだれの下流延長部には,レンズ状に成層

した厚さ数十cmの地層が谷筋を埋めるようにみつかる.後日の洪水によってつくられた地層であろう.こちらは,「水潦相仍ぎ」に相当する地層だと思われる.

 

2.2 地割れ

新里村教育委員会が1991年から2000年までの10年間に発掘調査した196遺跡のうち12遺跡で,平安時代前期に生じたことが確かな地割れがみつかった(図2).地割れは一本だけでなく,数本がまとまって平行に走る傾向にある(図3).多くは北西-南東方向に伸びている(図4).

ロームが割れて,その中をクロボクが充填している例が多い.開口幅は最大5m,多くは数cm〜数十cmである.幅広の地割れは内部が陥没している.柳久保遺跡のX-2, X-3地表平面図には地割れが1枚だけ描かれているが,30 cmより深いところには2枚の地割れが描かれている.いったんできた2枚の地割れの間の上部が崩れ,地表面では1枚に見えている.おそらく地割れは形成後すぐに埋められたのではなく,数ヶ月あるいは数年かけて降雨のたびに浸食されながら埋まっていっ



2 新里村およびその周辺で平安時代前期の地割れが確認された遺跡.棒の伸びで地割れの方向を示す.●は能登ほか(1990)が報告した地点.国土地理院発行20万分の1地勢図「宇都宮」を使用した.

 


たのだろう.久留美田遺跡では,地割れを人為によってすみやかに修復した例が見いだされている.

地割れはしばしば蛇行しているが,それは降雨時に発生した表面水の流れ込みによって縁が半月形に浸食されて生じたようにみえる.

等高線に平行に伸びている例が多いことから(図5),これらの地割れは重力性の側方移動によって生じたものだと思われる.このタイプの地割れは,1923年関東地震や1995年兵庫県南部地震でごく普通にみられた(たとえば横田・仲津,1996).

したがってこれらの地割れはどれも,この地震を引き起こした震源断層に続くものだとは考えられない.赤城山の南斜面がとても急傾斜であるために,地震動を感じて崩壊して土石なだれが発生した.火山麓に放射状に形成された必従河川の側壁が随所で剥離して,肩にあたる平坦面に何列もの地割れが生じた.

赤城山の南斜面が激しい地震動に襲われたことは確かだが,ここに地変が集中するからといって,ここがもっともよく揺れた,すなわちここが震源


4 地割れの方向は北西-南東に集中する.

 

5 地割れ方向と傾斜方向の角度頻度分布

 

にもっとも近いとは断定できない.じっさい広瀬川低地帯(9世紀当時,利根川はここを流れていた)の軟弱地盤に立地する遺跡からも9世紀の地割れがみつかっている.また対岸の埼玉県内では,妻沼低地の遺跡から9世紀の地割れや液状化跡が多数報告されている(堀口,1986など).

この地震を起こした断層がどこにあるかはまだわかっていない.水野ほか(2002)は埼玉県江南町丸山で江南断層のトレンチ調査を行い,逆断層による2.5 mの上下変位を確認した.しかしその形成年代は910世紀より古いことが確実で,818年よりも古いという.彼らはこの江南断層を含む深谷断層系で,このほかにもいくつか地震変位を確認したが,すべて818年より古いと結論した.818年地震を起こした断層を深谷断層系に求めることはむずかしいようだ.

そもそもこの地震が地表に変位地形を残すような浅い震源から発生したと考えてよいかが疑わしい.被害が内陸の広範囲に及んだことからみて,地下数十km付近に震源をもつやや深い地震だった可能性もある.萩原ほか(1982)は,茨城県南西部の地下30 - 60 kmにある「地震の巣」とこの地震の関係を疑った.いっぽう石橋(1994)は,この地震が,関東平野下のスラブ内の破壊に伴って生じたマグニチュード8クラスの巨大地震である可能性を指摘した.

 

2.3 地変跡の形成年代

これら地変跡の年代について,能登ほか(1990)は,重要な観察事実を二つ見いだした.

1)     土石なだれ堆積物が榛名伊香保軽石(6世紀)と浅間Bスコリア(1108年)の間に挟まれる.

2)     遺跡で出土する土器の形式から地割れの形成年代が「8世紀初頭から9世紀後半」の間に絞り込まれる.

その後に行われた久留美田遺跡の発掘では,8世紀後半の畑が土石なだれの堆積物で埋められていることが確かめられた.また,瀬戸I遺跡の土石なだれ堆積物中に横倒しになっていたコナラ樹幹の放射性炭素年代が1390±40 BPBeta-16335413C 補正後)と求められた.放射性炭素年代の基準年である1950年から単純に遡ると西暦560年を得るが,樹木年輪をもとにして得られた補正曲線でこれを暦年代に直すと,西暦650 年前後になる.この時代の放射性炭素年代は一般に100年ほど古く出る.

試料のコナラの直径は25 cmで,その年輪数は約40である.818年の地震でこれが倒されたと考えるには,まだ100年余りの食い違いが残る.放射性炭素年代測定で100年余り古く測られる理由はいま説明できないが,このことだけを理由に赤城山の南斜面の地変が818年地震によらないと結論するのは,早計であろう.

9世紀の関東地方には,このほかにもうひとつ,『三代実録』と『類聚国史』に書かれた元慶二年九月二十九日(ユリウス暦8781028日)の地震が知られている.上記した地変跡の年代推定は878年の可能性を排除しない.しかしこの地震の揺れは南関東の相模と武蔵がもっとも甚だしかったと記録されているから,北関東に位置する赤城山の南斜面に残る各種地変跡だけを878年の地震に当てるのはむずかしい.もし878年の地震なら,南関東にも北関東と同様またはそれ以上の規模の地変跡が多数みつかるべきである.

 

2.4 過去の類似例

赤城山の南斜面と西斜面には,818年以前にも斜面崩壊が起こった証拠がいくつかみつかる.その発生年代を,テフロクロノロジー調査によって,次のように明らかにした.

1.         中原土石なだれ  14300年前 西斜面 (白糸軽石の上65 cm

2.         西窪いわなだれ  30100年前 南斜面 (BP軽石と鹿沼軽石の間)

3.         石山いわなだれ 132000年前 南斜面 (水沼第6軽石の下210 cm

4.         橘山いわなだれ 132000年前 西斜面 (八崎軽石の下)

 このうち中原土石なだれと西窪いわなだれは,818年の斜面崩壊と同規模・同性質である.一方,石山いわなだれと橘山いわなだれは,赤城山全体の数分の1程度の土砂が一気に崩れた巨大山体崩壊だった.818年崩壊と同一に論じることは適当でないかもしれない.

石山いわなだれの年代は水沼第6軽石との層序関係からよく押さえられているが,橘山いわなだれの年代は八崎軽石より古いとしかわかっていない.石山いわなだれと同時としたのは,仮の年代推定である.

 これらの斜面崩壊が地震動によるものであるとする直接的な証拠は,どの事例についてもまだみつかっていない.また3万年より古い時代に起こったこれら以外の斜面崩壊を,その時代に堆積した地層があまり露出しないことを理由に,見逃しているにちがいない.しかしそれでも,赤城山の斜面が地震動によって818年と同規模あるいはそれ以上に崩壊するのは,数万年に1回程度のきわめて稀にしか起こらない現象だと言ってよいと思われる.

 

§3 まとめ

『類聚国史』にある818年地震記事と赤城山南斜面に残る地変跡を結びつけた能登ほか(1990)の知見を,その後10年間に新里村でおこなわれた196の遺跡発掘で再検討した.その結果,彼らの解釈をおおむね支持する結論を得た.この地震に伴う地割れは多数発掘されたが,震源断層はまだみつかっていない.地震の発生メカニズムは依然として不明のままである.818年と同種の地震による痕跡を過去に遡って地層中に探した結果,この災害がこの地域では数万年に1回程度しか起こらないきわめて稀な現象であるらしいことがわかった.

 

謝辞 小山真人さんによる査読によってこの論文は大きく改善された.石橋克彦さんと佐竹健治さんによる用語へのアドバイスは有益だった.図面の調整は武井伸光さんにお願いした.

 

文 献

 

萩原尊禮・藤田和夫・山本武夫・松田時彦・大長昭雄(1982)古地震歴史資料と活断層からさぐる.東大出版会,312pp.

堀口万吉(1986)埼玉県北部でみられる古代の噴砂について.歴史地震,29-14

石橋克彦(1994)大地動乱の時代.岩波新書,234pp.

松田 猛(1991)『類聚国史』弘仁九年の地震.『赤城山麓の歴史地震 -弘仁九年に発生した地震とその災害-』,群馬県新里村教育委員会(86pp.),12-15

水野清秀・伏島祐一郎・須貝俊彦・杉山雄一・細矢卓志・黒澤英樹・山崎晴雄(2002)関東平野北西部,深谷断層系の活動履歴.地球惑星科学関連学会2002年合同大会,J029-P008.

能登 健・内田憲治・早田 勉(1990)赤城山南麓の歴史地震弘仁九年の地震に伴う地形変化の調査と分析- 信濃,42755-772

能登 健(1991)弘仁九年地震災害についての覚書.群馬県史研究,3438-50

関 晴彦(1991)三ッ寺II遺跡の地震跡.群馬県埋蔵文化財調査団調査報告93,三ッ寺II遺跡(本文編),205-238

横田修一郎・仲津忠良(1996)西宮市上ヶ原地区の例にみる兵庫県南部地震による盛土すべりと旧地形に対応した地表での地割れの変位.地球科学,50385-390