(未完成原稿)
1、 はじめに
2000年の夏から秋にかけて三宅島、磐梯山、浅間山,などいくつかの山が火山活動を行い世間の注目を集めた。しかし,報道は噴火による被害や被害者数を伝えるところで,終わってしまうことが多い。その結果、その後数ヶ月,数年経った頃にはあまり関心が寄せられなくなってしまう。
私たちは地震や火山噴火によって被害を受けることがある.災害に遭った地域はその後復興への道を目指す。復興後、何百年もの年月が流れたとしたら人々はどのくらい関心を寄せるだろうか。その地域に住む人々は災害に対しどのような気持ちを抱いているのだろうか。
私はある地域に注目した。群馬県の西側,浅間山北麓に位置する嬬恋村鎌原(図1)である。鎌原は1783年に「天明三年の噴火」と称される浅間山による火山被害に見舞われた。当時は鎌原村と呼ばれていたが,この村は噴火により,ほぼ壊滅状態であったのにもかかわらず,わずかな生存者をもとに復興を成し遂げた。今では群馬県内の観光スポットとして脚光を浴びている。しかし.災害の事を忘れたわけではない。噴火から217年経った現在でも組織的に噴火のことを言い伝えようとし,供養も行事的に行われている。
このような例は類を見ない。日を経るごとに忘れてしまいがちな今日の流れの中,人々を組織的に動かしている原動力はなんなのか,人々は何をどう伝えようとしているのか,そして具体的にはどんなことを行っているのか、人々は,どのような気持ちでそれらのことを続けているのだろうか、という部分に目を向け調査した。
調査方法としては、鎌原観音堂で当番している人たちに話を聞いたり,回り念仏に実際に参加しそこに集まってくる人たちの話を聞いたりと,鎌原に住んでいる人たちに実際に話を伺うという方法を取った。話を伺った人たちのほとんどは65歳以上のお年寄である。
2、 天明三年(1783年)噴火とそれによる鎌原への被害
浅間火山の被害史の中で,最大の噴火といわれる天明三年の噴火は四月八日より始まった。このとき,かなりの噴煙と鳴動,地震,空震を伴っていた。その後一応鎮静化したかに見えたが、六月十八日になると田代,大笹,大前,鎌原へ小石や火山灰を降らせた。この頃からほとんど休みなく活動をしていった。七月に入ると火山活動は衰えるどころか,ますます激しさを増していった。(「嬬恋村史 下巻」)
七月六日、八ッ時より頻りに鳴立,きびしき 天も砕け地も裂かと皆てんとうす。先西
は京・大阪辺、北は佐渡ヶ嶋,東えぞがしま松前,南は八丈,みあけ島迄ひびき渡り物
淋しき有様なり。「無量院住職記」
と,七月六日から特に強烈な活動を見せた。そして,天明三年の噴火のクライマックスであり,最大の七月七日と八日の噴火をむかえることとなる。
七日,鳴音前日より百倍きびしく,地動事千倍なり。依之老若男女飲み食を忘れ,立た
り居たり,身の置所なく,浅間の方ばかりながめ居候所,山より熱湯湧出しおし下し,
南木の御林見る内に皆燃へ尽す。鹿、犬の類皆焼死す。原も一面の火に成り,目もあて
られぬ次第也。天に吹あぐる事百里もあるべきかと云。惣のめぐり石落こと雨の如し。
譬て云ば、白熊をふりたてたるごとく,口もとどかず,筆にも難之大焼。「無量院住職記」
この手記で,爆発,鳴動,地震,火山弾、火山 そして一方山が裂け溶岩流が流れ出していたことを伝えている。地域の住民は飲み食いもできず,不安と恐怖におびえ,生きた心地がしなかったに違いない。しかし自然の圧倒的な力にはどうすることもできず,振るえながらとうとう運命の七月八日を迎えた。
曰、八日大焼の事
八日、昼四ッ時半時分少鳴音静かなり。直に熱湯一度に水勢百丈余り山より湧出し、原
一面に押出し,谷々川々押払い,神社,仏閣,民家,草木何によらずたった一おしにお
っぱらい,其跡は真黒に成,川筋村村七拾五ケ村人馬不残流失,此水早き事一時に百里
余りおし出し,其日の晩方長支まで流出るといふ。
此日は天気殊の外吉故、川押し有るべき用心少もなく、焼石降るべき用心のみ致し、各
土蔵に諸道具を入,倉に入昼寝 致し居,油断真最中,おもいの外にたった一押しに押
流し人馬の怪家数を知らず,凡一万七千人と申風聞,実の所未知。此節皆々七転八倒,
譬ヘべき様無之,折節川の方能見る者壱人もなし。命を捨て身物所で無之。「無量院住職
記」
とあり,七月八日四ッ半時(午前十一時)に,山頂から溶岩流,砂礫などが多量の水とともに推定千二三百度の高音で流れ出し,アッという間に上州側の北側を流れ下り,六里ヶ原の何百年という原始林を押しつぶし,傾斜を嬬恋,長野原に向けて押し出した予想もしない泥流のために鎌原村が全滅した(嬬恋村史 下巻)。
では,嬬恋村の被害状況はどの程度であっただろうか。(図2) 図2 浅間山麓における天明三年噴火による被害
(田村,早川 1995より引用) 室町時代に形成された鎌原の集落は,江戸時代には信州と上州を結ぶ交通の要所として栄え,災害以前は、当時の村の平均人口400人に対し570人を誇る大きな村であった。
(嬬恋村歴史資料館展示パネル より)
その村が,七月八日の噴火により,わずか93人を残すだけとなってしまったのである。 この93名は四散せずに鎌原再建の道を選んだ。しかし再建の方法として取られたのは、親を失った子と子を失った親を親子とし,夫を失った妻と妻を失った夫を夫婦とするという世にも稀な家族の構成がだった。 「九月二十四日の第一回の結婚式で7組が結ばれ,歳の暮の十二月二十三日に第2回の結婚式が挙げられた。」(天明三年浅間山噴火史))こうして新しい家を作りさらに家と家とが協力して新しい村づくりがなされたのである。
3、 鎌原観音堂奉仕会
この大惨事から200年以上が経過した。鎌原は復興の道をたどり,みごと嬬恋村鎌原として現在も存在している。しかし,地域の人々は噴火のことを忘れたわけでなく現在でも先祖の供養や噴火のことを人々に伝えようと組織だって行っている。その中核を占めているのが、鎌原観音堂奉仕会である。
鎌原観音堂奉仕会は昭和54年に発足した。昭和54年は,鎌原の地域で発掘調査が行われ,天明三年の当時のものや人骨など様々なものが発掘され、鎌原の地域のことが日本中に報道され一躍脚光を浴びた。鎌原地区で,観音堂(写真1)に逃げた人々のみ助かったことや,観音堂だけが被害を免れたこと、そのことにまつわる話などが、人々の心を引き,観音堂に全国から参拝客が訪れた。「人が来てくれるのだから誰かいなくては。」ということで、交代で,湯茶の接待を考えつく。当番表を作って次の当番に申し送りをする日誌もできて,有志の会を奉仕会とすることになった。「全国の皆さんが注目したんですね。ですから当然,天明三年浅間押しの和讃とか,老人の念仏とか,春秋の彼岸の供養,そういうものが世に出たし,それが組織的にも協力的にもいくつかの要因のからまりの中で、土地の方の願い,祖先をふりかえるゆとりというか,客観的に住民の方が見返るような機運が広まったと言えましょうね。」(「緑よみがえった鎌原」)
現在この会則に則って奉仕会は運営されている。奉仕会は昭和54年から存在しているが,会則が作られたのは数年前のことである。会則にしたがって現在の奉仕会の様子を報告する。
第2条の鎌原に在住し本会の主旨に賛同する者は現在99名。これは65歳以上の者だけが参加対象とされている。鎌原に在住する65歳以上の約3割に当たる。
第4条 1、にあるように、観音堂を当番制で維持管理している。参加者を13組に分け
て365日交代で当番している。(写真2、3)以前は15組あったが,人数が減少したために13組になった。14組にするといつも同じ曜日に当番が回ってきてしまうので,奇数組にしたという。
班長は全て男性。最年長者というわけではなく,班をまとめるだけのリーダーシップが必要なので,それを一番備えている人が選ばれている。班は,近所の人同士というわけではなく,仲のいい人同士で構成されている。奉仕会に入会する時点で,自分でどの班に入りたいか選択できる。1つの班が人数が多くなりすぎたら,班の数を増やすが,現時点ではそのような問題は発生していない。1班は10人と人数が多いが,病弱な人が多いので10人が全員参加できることは少なく,上手くバランスが取れている。
ゲートボール,奉仕会,念仏を唱える会などがあり,参加はすべて自由。全てに参加している人もいるし,全く参加していない人もいる。そのような中で,奉仕会は男性の参加者が少ない。
これは仕事を持っている人が多いからだろう。
当番は朝8:00か8:30から夕方4:30頃まで行っている。参拝客は一番多い夏場で1日400〜500人訪れる。賽銭は年間300〜400万円くらいあるという。発掘当時は1日で10万,年間1000万円以上あった。このお金は発掘費用にあてられていた。現在は観音堂の修復,奉仕会の旅行等の費用にあてられている。
第4条 2、の浅間焼け罹災者の供養その他の伝統の行事としては旧暦の七月八日に当
たる日前後に観音堂の前で供養祭が毎年行われている。今年度は8月5日の人が集まりやすい土曜日に行われた。(写真4、5)式典の出席者は,供養のための和讃を唱える人が22人,その他の出席者が40人,式典会場の周りで見ているだけの人や,遊んでいる子どもたちは20〜30人と全体で約80人であった。ただこのうち子供の数は少なく,お年寄が多かった。出席した子供に聞いたところ「今年初めてきた。」「今までこの行事を知らなかった。」とのことで、子どもたちの間には行事は浸透していなかった。行事の準備は若妻会,老人会,奉仕会の代表者が集まって分担して行われている。
*なおらいとはみんなで集まり苦労をねぎらう会のことである。
この他に,旧暦の十月九日に当たる日に伊勢崎の戸谷塚の慰霊祭に参加している。この日
は十日夜と呼ばれる日で,十日夜とは放念祭のことである。戦後の昭和25〜30年くらいまでは鎌原地区では次のような行事が行われていた。各家庭の前に案山子を立てて,餅を供える。そして,ミョウガを乾燥させたものを芯にして,稲の殻で包み棒を作り,それで子どもたちが歌に合わせてたたき回る。(ハロウィンに似ている)
これは,無事に過ごせたのもこの案山子が身代わりになってくれたということで案山子に感謝する。このような行事がもとになって,何かを身代わりにして供養するということからこの日に行われている。
戸谷塚には浅間焼けのとき利根川を流れ下った遺体が何百と打ち上げられた。その後夜な夜な戸谷塚では人のすすり泣く声が聞こえ,人々は眠れない日々が続くようになったという。そこで,地蔵尊を建て供養をした。その建立に際し鎌原でも寄付金を集めたところから交流が始まった。奉仕会の人々は戸谷塚で,手厚い歓迎を受けている。慰霊祭参加後、お昼を公民館で戸谷塚の人と交流を兼ねて食べ,太田の中野(ここにも慰霊碑がある)に立ちより温泉宿(鬼怒川など)に行き一泊することになっていて,レクレーション的要素も強くなっている。これには区の役職の人も参加することになっていて,区同士の交流も含まれている。(70才代の女性の話)
その他の行事も挙げておく。 *お籠りとは皆で集まり,祈りをささげる風習 では,実際に奉仕会で活動をしている人々は、どんな理由で奉仕会に参加していて、どのような気持ちで活動を続けているのだろうか。人々の原動力は何なのかを探るべく,奉仕会参加者に話を伺った。すると、
・ 入るきっかけは知り合いに誘われて入るのが一番多い。(同じグループにしてもらう)
・ 旅行と知り合いとのおしゃべりが楽しみで奉仕会に入っている。
・ 観音堂に行くと,同じ組の人が昼食を用意してくれるので,それを食べに行くのが楽しみ。 (70才代女性)
・日々一生懸命働いているから,観音様のところに行けば休めるという気持ちある。息
抜きになる。 (67歳男性)
・ 奉仕会の旅行や,みんなで集まるのは楽しみ。みんな仲良しなので楽しい。
(84歳男性)
というみんなで集まることに楽しみを見出している人は多い。みんなで集まり和やかな空間がつくられているのも事実だ。その証拠にこんな話をしてくれた人もいた。
・ 奉仕会は楽しい。他の地域の人で奉仕会に入りたがる人もいる。そんな時は鎌原に住んでくれるようになったら歓迎するよって言うんだ(笑)。この楽しく温かい雰囲気がいいらしい。奉仕会は家庭とはまた別の楽しみがある。(60才代男性)
囲炉裏を囲み,皆で酒を酌み交わしている日もあった。お昼も皆で作って食べる。材料は観音堂にあるものを利用する。その材料は奉仕会の費用で購入されている。ノートがあってそれを持っていくと付けで買い物ができ,月末に会長が精算するという形がとられている。
楽しみを求めてではなく、ただ特に理由もなくという人もいた。
・ 奉仕会に入会した理由は,65歳になったから。みんな定年を過ぎたりやる事がなかったりして暇になったからというのもあるが,65歳になったら入るというのが当たり前になっている。だから周囲の人も「○○さんが65歳になったから」という形で65歳になった人を次々と誘う。で,ともだちと同じ組に入るというのが一般的。友達と同じ組には入れるということで入会する事に抵抗はない。(60才代女性)
ただ,どの人も供養の気持ちが大前提にある。
・ 奉仕会に入会した理由は,先祖の供養。
噴火の犠牲者は自分達の8〜9代前の先祖であり,村の住民の8割はその末裔。
また、噴火のとき,観音様のもとに来た人のみが助かった。すなわち観音様が身代わりになってくれた。だから,観音様には絶大なる敬意がある。その大切な観音様を毎日みんなでお守りしているという気持ちもある。 (80才代男性)
・ 観音様に絶大なる敬意があるので,奉仕会に入らない人はまずいない。80歳くらいの人では2,3人入っていないないだけ。一家で、たとえ夫は入らなくても妻は入るという形でほとんどの家庭が入っている。 (70才代男性)
自分達の先祖の供養という気持ちは,どの人も口にしていた。先祖を助けてくれた観音様への敬意を持っている人もいる。皆がそのような同じ気持ちのもと集まっているから自然と和やかな雰囲気で楽しく行う事が出来ているのだろう。
・ 奉仕会を村おこしの参考にしたいと訪れた人もいた。しかし,他の地域ではそう簡単には上手く行かないらしい。というのも,この土地では観音様に対する敬意がみんなの中にあるから,その気持ちで団結している。みんなの目指すところが近い。奉仕会以外の人でも支えてくれる人も多い。だから上手く行っている。目指すところが違っていると,かなりのリーダーシップを持ち合わせた人が必要となる。しかし,そんな人はなかなかいない。だから難しい。 (80才代男性)
という人もいたくらいである。
・ 現在の奉仕会の人々は発掘に携わっている人が多いから供養の気持ちが強い
(60才代男性)
という声もあった。発掘に携わっているから,自分の目で遺骨を見ているから,なおさら先祖の供養という思いがある。だから,65歳になったら奉仕会に入って協力するのが当たり前という考えも生まれてきている。この鎌原で生まれ育っているから土地への執着心も強い。しかしこのような考えを持っているのは今のお年寄の代くらいまでである。
・ 若い人では噴火の事を詳しく知る人は少ないと思う。学校の授業でもないし,祖父母から話を聞くくらいしか知る機会がない。遠くからやって来る人のほうが,パンフレットや館長の話により詳しく知っている人が多いのではないか。供養の気持ちや,噴火に関する気持ちはだんだんと薄れていくのでは。 (70才代女性)
という現状を見ての不安の声もささやかれていた。
4、回り念仏
観音堂奉仕会のほかに組織的な供養を行っている特徴的なものとして、回り念仏がある。これはその名の通り毎月7日と16日に家を回る,浅間焼けによる犠牲者の霊を慰めるため念仏を唱える習慣のことである。
・ なぜ月2回なのかは言い伝えられていないが,1ヶ月を半分に約1回づつとい
うところから始まり,何らかの事情で7日と16日になったのではないか。
(70才代女性)
これは村中の家々を会場とし,諸仏具と一緒に隣の家へと持ち回りとなるのでこの名がつけられている。7年ちょっとかけて村を一周する。開始時は古文書等には残っていないが,長老の話によれば,現在の鎌原観音堂敷地内にある,流死者33回忌供養塔設立(文化12年7月8日)時に念仏講が発願され,生き残った人を慰め,亡き人をねんごろに供養するよう,家々を回ったと思われる。これは戦時中もほの暗い明かりの中で続けられていた。
回り念仏は,家々の事情や信仰する宗派が異なり出来ない家庭も多くなり,さらに戦後は農業や養蚕で生計を立てていたので夏の繁忙期は中断することになり、現在では正月の1月7日,農繁期の8月の2回,9月の7日を休み,年20回行われている。各家庭を持ち回りするのが基本であるが、当番の家庭で不幸があったり、病人がいたりする場合、信仰が違う場合、念仏に抵抗がある場合など事情がある場合はその家庭は抜かして次の家庭へと移っていくことになっている。昭和40年代までは夜に行われていたが、念仏の帰りに路上で交通事故に会った二人の尊い命が失われて以来、回り念仏は夜から昼に変更された。現在では10時くらいから15時くらいまでの間で次のようなプログラムで行われている。
5、考察
観音堂奉仕会にしても、回り念仏にしても人々の心の根底にあるものは供養の気持ちであった。この地で生まれ,育ち、結婚。土地に対する執着心がとても強く感じられた。また伝統的な家制度も色濃く残っている。そういった環境だからこそ先祖に対する供養の気持ちが生まれやすいのだろう。しかも発掘に携わっていて、土地から先祖の遺体などが発見されるのを目にしたらその気持ちは強さを増すばかりであっただろう。同じような気持ちの持ち主が集まって同じ目的の元活動をしているから何十年と続く活動になっているのだ。必然的に団結力が生まれる。そして,家制度の強さも力を貸し次の世代へと受け継がれていく。回り念仏の際に嫁が料理を作り皆をもてなすことが当然とされている。鎌原区全体での暗黙の了解であるようで,姑のいる家庭で病人がいるなどの特別な事情がない限りまわり念仏を受けない家庭も,嫁が準備をしない家庭もない。そのうちにはそのまま嫁が回り念仏に参加するようになる。奉仕会では65歳になった人に声をかけ、周囲の人が参加を促す。友達と同じグループということで抵抗なく参加する。というふうに参加へのレールは敷かれている気がする。鎌原の人には,そのレールをたどることが普通であるようだ。そこに参加して,初めて地域の中に受け入れられるのではないだろうか。そこに入らないものは変わり者という目で見られるのではないだろうか。
活動を続けていくことが出来ているのは、友達との談話・噴火を周囲の人に伝える使命感・奉仕会ではお守り等の販売・回り念仏では昇段試験や大会など人々の目標となり得るものや楽しみを見出しているからである。観光地化されている鎌原区での活動は世間の注目を集めている。その刺激も大きな要因だろう。仕事も退職し,自分の居場所をこれらの活動に見出しているのではないかと思われる。
また、何十年,何百年も続いている言うことは彼らの誇りにもなっている。そして「続けていかなくては」と気持ちを駆り立ててもいる。強い気持ちを持ったまま皆が集まっているので,さらに高め合う結果となっている。
ただ、これからの世代は鎌原区以外で生まれ育ち結婚を機にこの土地に来た人や天明三年のことをあまり知らない人が増えていく。世間での注目もだんだん薄れつつあるようで,参拝客も年々減少傾向にある。そのような中で,続けていくのは今以上の団結と,強い気持ちが要求されている。だが,天明の浅間焼けのことは忘れてはならないことであり,防災に関しても怠ってはならず,被害を受けた人々を供養する気持ちは次世代に伝えていくべきことである。過去を知り得るものが現代において人々に伝え共有し,そして次に未来に伝えていく。このサイクルがあったからこそ現在の鎌原は存在すると思う。いつまでも鎌原での活動が続き,二度と同じ災害が起こらないことを願い祈るばかりである。
6、今後の課題
今回はお年寄の方に話を伺い、現在の活動状況はわかった。今後は,その子供や嫁の代(次に活動を背負っていく代)や孫に当たる子供たちにも話を伺い,どのように考えているのかを探ってみたい。また,鎌原区で生まれ育った人と鎌原区以外で生まれ育った人との間にはどんな意識の違いが見られるのか調べてみたい。
7、謝辞
今回この論文を書くに当たり熱心にご指導していただいた早川先生、この調査に協力してくださった観音堂奉仕会会長の山崎己代治氏をはじめとする鎌原区のお年寄の方々,歴史資料館館長の松島先生にはお忙しい中多くの時間を割いていただき本当にありがとうございました。ここに感謝の意を表したいと思います。
8、引用文献
*嬬恋村史(1977)嬬恋村村史編集委員会 下巻P、1901,1906
*萩原進:天明三年浅間山噴火史(1982)鎌原観音堂奉仕会発行 P,44
*天明の災輝く恩恵 鎌原区・鎌原観音奉仕会(1992)P.16〜17
*緑よみがえった鎌原(1982) 清水 あさを社 P,26
* 田村知栄子 早川由起夫:資料解読による浅間山天明三年<1783>噴火推移の再構築
(1995)地学雑誌 Vol.104,No.6(942)P,859