プロローグ
12月30日の朝のことでした。7時すぎたあたりだったでしょうか、玄関を入って右の部屋から小島さんが出てきました。早川先生とともにマウナロアに行ってるはずの・・・。何のことはない「寝坊」によっておいてかれた小島さんでしたが、その後小島さん、武井さん、そしてわたくし星の三人、さらにこの日山いかなかったグループは、朝のひとときの団欒を過ごしていました。先日にロア&ケアに登った東宮さん等の話(群青色の空etc.)を聴き、とてつもない”ヤマ”への衝動に駈られた、小島・武井・星の三人は、車で行けるマウナケアを目指す決心をしました。残ったメンバーの予定を決め、車の配分はどうするか、何時ごろに先生達は帰ってくるか、など話し出発の段取りを決めました。
9時を過ぎたあたりだったでしょうか、荷物(といってもカメラや防寒具)を車に積み込み、近くのガソリンスタンドでガソリンを満タンにしました。”いざ しゅっぱーつ!!”
体験記
少し運転するとサドルロードが出てきた。3人とも必死だったのか、原点ともいうべきそのポイントで写真を撮ることを忘れてしまった。ロードに入ると[左右に振られる。そしてジェットコースターが待ってる」といわれた通りの展開となってきた。車に非常に酔いやすい私としては、この流れはつらかった。特に”ジェットコースター”の縦ゆれは辛かった。その状況を打破すべく私のとった策は、”人としゃべること”だった。しかし、こんなものではやはりだめで、改善策を考えなくてはならなかった。その策が、”Singing a song”だ。まるで、と言うかまさに独り言のように歌を歌い続ける私、緊張した面持ちで運転する武井さん、なんかウキウキしたような小島さん、3人の息の合わない時間が過ぎていった。
何曲歌った頃だろうか、斜面が変わってきた。車のスピードもさっきよりだいぶ落ちている。横を見ると走ってきた道が下にみえる。「雲海だ!」右手前方に広がる景色はまさに雲の海であった。休憩を入れ、車の熱を下げながら3人は、遥か前方に見える雄大な”ヤマ”を目指した。車も、マーキュリー(車種名) →マッキー(愛称)に変わり「仲間」となっていった。休憩所では、「この車じゃいけないよ。ここまでだね」と同じような車で来ていた家族に言われ、「ああ、そーですか」という感じで流し、「この車には実績があるんだぜ!!」と自慢したくもなったがそこは辞めといた。四駆の車がスイスイと登っていく中、僕ら3人を乗せたマッキーは、カメのように、しかし1歩1歩確実にその目指すところへと進んでいった。
道がアスファルトからジャリ道に変わった。この頃になると休憩の回数が増え、マッキーの疲労が目に付いた。こいつは昨日も登ってるんだ。温度計に注意を向けて進んだ。カーブをいくつぬけただろうか。「天文台だ!!」丸い頭の天文台が見えた。しかし右の方にはまだ登っていけそうな道が続く。左の方にはそこが終着点といわんばかりのポジションがある。僕ら3人とマッキーは、右を捨てその見かけの終着点へと向かった。再びアスファルトに戻っていた道は、マッキーには優しかった。ある天文台(?)の駐車場に車を停め僕らは、マッキーから降りた。雪がある。”ケア”の名にふさわしく白かった。眩しかった。
まず、3人がやったことは、”コーラの実験”だった。ふもとから持ってきたコーラの栓を開けたらどうなるか。3人の予想は、と言うかふもとに残った人の予想も含め、「プシューっと吹き出る」だった。結果は、×。ハズレであった。
その後、武井さんは、さっさと登っていってしまった。車を停めた建物の人に小島さんが聞いたところ、「右の丸いのが”NASA”で、左のが日本のもの」と言うことだった。この情報を聞き、小島さんと私も登ることにした。少し歩いただけで息が切れる。サッカー歴13年(といっても最近は腰痛のため2年ほど第一線は退いているが)の私でもきつかった。100mほど先の日本展望台”スバル”が遠く見えた。1歩1歩踏みしめながら上りその前まできたとき、左には遥か遠くの方までの景色が広がった。空は、まるで嵐が過ぎ去った後の静かな、そして力づよい青色で私を包んだ。武井さんと小島さんはここまで来たらかなり調子を崩し、頭痛などが生じていた。幸いのことに私には多少の動悸が感じられたものの、それほどのことはなかったのでスバルの先にある、”NASA”を目指した。10m歩くだけ出足が重くなる。焦点距離がなんか違う。もう残り数十mのところまで来たのに、展望台を囲む壁が見えるのに・・・。私は断念した。先生に内緒で来ている山だ。病気になったらまずい。迷惑をかけてしまう。この思いが強く心に浮かんだ。私は下に降りていった。 お昼近くになった頃だったか、私たちは山を下りることにした。
帰りは来るときの酔いかたとは別の心配が出てきた。エンブレ(エンジンブレーキ)である。ガクンガクンとした車のリズムに、私とマッキーはもうくたくただった。でも私と車だけではなかった。武井さんもまた疲れを隠さずにはいられなかった。焦点が合わないようなことをいいながら、安全運転を心掛けながら降りていった。雲海が迫ってくる。下にあった雲が、僕らの横へと上がってくる。最後にはいつもと変わらない、自分らの上に雲はきた。
運転にも慣れてきた僕は、次第に元気を取り戻し、”歌”が口から出るようになった。それは、酔いを防ぐのではなく、天気のいい日にお母さんが布団を干しながらするそれに似ていた。その行為は3人に広がっていった。山を下りた頃には、マッキーの中は”カラオケボックス状態”となっていた。
サドルロードも終焉を迎えた。看板の前で記念写真を撮り、僕らを乗せた、マッキーは”エリマ ラニ”へと向かっていった。
エピローグ
エリマ・ラニへと帰ってきた私たちは、この事がばれぬよう口を合わせておくことが必要となりました。早川先生があれほど真剣に高山病についての危険性を話して下さったのにも関わらず行ってしまったわけですから。山行かなかった軍団の行動を聴き、それとうまくかみ合いながらも、微妙に違うスケジュールを偽造し、先生を待ちました。しかしいっこうに帰ってきません。7時をすぎたあたりで帰ってきました。私たちがとった作戦は、「先生にしゃべらせる」でした。自分達のことを聞かれなけば、バレルことはないはず。幸い先生は興奮ぎみ。お酒も入りまあまあうまく行きました。
その日は、最後の夜ということもあり、初日以来で全員が集まったのでみんなの話で盛り上がり電気を消しました。
ああ、いつになったら、あの”ヤマ”のこと話せるのかな-