ゑれきてる連載 日本の火山 新しい火山観をめざして
第4回 赤城山 2004年3月
疑わしい13世紀の噴火
古記録に対応する噴火堆積物がみつからない
▼『吾妻鏡』に書かれた「赤木嶽焼」
『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の歴史を日記の形式で記した歴史書です。この書物の建長三年四月の二十六日条に、「去十九日、上野國赤木嶽焼、為先例兵革兆之由、令在廳等申之由云々」とあります。去る十九日に上野国の赤木嶽が焼けた。先例によると戦乱の兆候だというので、国府の庁にいる役人に報告させたそうである、という意味です。建長三年四月十九日は、ユリウス暦の1251年5月11日にあたります。
赤木嶽は赤城山を指すとみてよいでしょう。この種の記録にあらわれる「焼」を噴火と解釈することは他の火山の記録でしばしば行われることですから、赤城山が火山であることが知られた明治以降、この「焼」も赤城山が噴火したことを意味すると解釈されてきました。そう解釈した文献は、小鹿島果の『日本災異志』(1893年)まで遡ることができます。
気象庁もこの解釈を採用して、赤城山は13世紀に噴火した実績をもつ活火山であると認定しています。
南西から見た赤城山 足尾山地に阻まれている東側を除いて、長い裾野を北、西、南の三面に広げています。それらは、たびかさなる土石流によってつくられた扇状地、溶岩ドーム上昇に伴う火砕流の堆積物、そして山体崩壊による土石なだれが残した堆積物からなります。赤城山は、2万4000年前ころにあった小沼タフリング、地蔵岳溶岩ドーム、血ノ池火口の形成のあと、現在まで長い沈黙を続けています。
▼噴火堆積物がみつからない
赤城山でもっとも新しく見える噴火地形は血ノ池です。これは、直径わずか80メートルの小さな火口です。この火口の中には、西隣の榛名山から6世紀に飛来した伊香保軽石が降り積もっていますから、血ノ池火口ができたのは6世紀より古いことが確かです。13世紀の噴火でできた可能性は、まったくありません。この他、赤城山を隈なく歩いても、「赤木嶽焼」に対応する噴火堆積物はどこにもみつけることができません。
ある火山の噴火の歴史を知りたいとき、古記録や古文書の記述は貴重な情報をもたらしてくれます。しかしその記述を安易に都合よく解釈したり、記述を鵜呑みにしたりすると、大きく間違えることがあります。火山噴火は堆積物という物証を残しますから、古記録・古文書の記述を現地に残された噴火堆積物で確かめる作業がなされなければなりません。
近年、多くの活火山でこの作業が進められた結果、古記録・古文書の記述に対応する噴火堆積物がたくさんみつかりました。噴火記録が知られていたほとんどの火山で、ひとつ以上の噴火堆積物が確認されています。しかし、ひとり赤城山だけは、古記録の記述に対応する噴火堆積物がみつかりません。
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那須岳では、1408年噴火記録と1410年噴火記録に対応する堆積物が、6世紀に榛名山から飛来した伊香保軽石(FP)の上に確認できます。 |
十和田湖から915年8月に飛来した軽石(To-a)の上に、そのあと秋田駒ヶ岳で起こった水蒸気爆発による堆積物が重なっています。この水蒸気爆発を書いた記録は知られていません。秋田駒ヶ岳山腹。 |
▼山火事だったかもしれない
噴火でなかったとしたら、「赤木嶽焼」はいったい何を書き残した記事なのでしょうか。
焼けた日付、四月十九日(5月11日)は、一年のうちでもっとも乾燥する季節にあたりますから、山火事を書き残した可能性があります。しかし先例があって、それが戦乱の兆候だと書いているところには、陰陽師による占いを利用した政治的意図が見え隠れしています。焼けた事実がほんとうにあったかどうかまで、疑ってみる必要がありそうです。
『吾妻鏡』では、「赤木嶽」も「焼」も、この一例だけの特別な使い方ですから、記事の解釈をこれより先に進めるのはむずかしいようです。
▼最後の噴火はいつだったか
赤城山の上には二つの湖(大沼と小沼)があります。大沼は、張り出しと入り江からなる複雑な形状をしています。一方、小沼は単純な円形をした火口湖です。こちらはタフリングの中心に水がたまったものです。タフリングとは、火口から噴き出された軽石や火山灰がその周りに積み重なって環状の高まりをつくった小さな火山のことです。
円形が壊されていないことから、小沼は赤城山の最後の噴火かまたはそれにとても近い時代にできたと思われます。現地で丹念に調査すると、姶良丹沢火山灰(2万8000年前)や浅間山の軽石群(2万6500〜2万3300年前に4枚)との上下関係から、小沼ができたのは2万4000年前ころだったと決定できます。
小沼タフリングより上には、赤城山の噴火堆積物がまったくみつかりません。小沼タフリングと同じくらい新鮮な地形をもつ血ノ池火口と地蔵岳溶岩ドームは、露出が限られているためにそれらの年代を堆積物の重なりによって決めることは困難ですが、どちらも小沼タフリングと同じころにできたとみてよいでしょう。
以上の考察から、赤城山は2万4000年前ころの噴火を最後に、現在まで噴火を中断しているとみてよさそうです。上で述べた血ノ池も、その噴火の末期に生じたものだと思われます。
▼赤城山は再び噴火するか
2万4000年間噴火しなかった火山は、もう噴火しないのでしょうか。これは簡単には答えられない、たいへんむずかしい問題です。
他の火山の例をみてみましょう。赤城山と同じ群馬県にある草津白根山は、35万年前を最後にいったん噴火しなくなったあと、1万9000年前から再び噴火を繰り返すようになりました。20世紀には何回も噴火しました。榛名山は、22万年前を最後にいったん噴火しなくなったあと、4万2000年前から、場所を変えつつ溶岩ドームを上昇させる噴火を4回繰り返しました。これら二火山の事例をみると、最後の噴火からまだ2万4000年しかたっていない赤城山も再び噴火するかもしれないように思われます。
しかし10万年以上噴火しなかった火山が再び噴火したときは、そこに新しい別の火山が生じたと認識したほうが合理的なように思われます。10万年はマグマだまりが冷えるのに十分な時間ですから、ひとかたまりの新しいマグマが同じ地下通路を通って上昇してきたと解釈したほうがよさそうです。
10万年はそうみるとしても、2万4000年は微妙な時間の長さです。日光の男体山は1万5000年前に最後の噴火をしました。男体山が再び噴火するだろうと心配する火山学者の数は、赤城山の再噴火を心配する火山学者の数よりかなり多そうです。
諏訪瀬島(鹿児島県)。Aランクの活火山。2003年は毎月噴火しました。
岩手山(岩手県)。Bランクの活火山。1732年に焼走り溶岩を流したあと、1919年に小さな噴火をしました。
妙高山(新潟県)。Cンクの活火山。最後の噴火は4700年前でした。
▼日本の活火山とそのランク
将来また噴火するだろうと思われる火山を活火山といいます。気象庁は、1)歴史時代に噴火記録がある火山と、2)噴気あるいは熱異常のある火山を活火山に認定していましたが、1991年に基準1)を、過去2000年間に噴火した火山に変更しました。歴史記録の不完全性と地域格差を解消することを目的としたこの変更によって、十和田湖、榛名山など数個が新たに活火山になりました。
さらに2003年1月には、国際基準にならって、噴火期間を過去1万年間に拡大しました。これによって、羊蹄山(北海道)、ニセコ(北海道)、肘折(山形県)、沼沢沼(福島県)、利島(東京都)など約20個が活火山の仲間入りをして、日本には、北方領土も含めて、108の活火山があることになりました。
この拡大と同時に気象庁は、噴火堆積物の調査から知ることができる過去1万年間の噴火履歴と、近代観測データがある過去100年間の噴火・異常実績から、108の活火山を三つのランクに分けました。Aランクは、浅間山、阿蘇など13火山。Bランクは、岩手山、鳥海山など36火山。Cランクは新登録の火山など36火山からなります。海底火山や北方領土の23火山はデータ不足のためランクに分けられませんでした。
火山防災を実現するための機器観測やハザードマップ作成などの予算は、より活発なランクAの活火山に多く割り当てられることになっています。