大正三年一月十二日、桜島の爆発は安永八年以来の大惨禍にして、全島猛火に包まれ、火石落下し、降灰天地を覆い、光景惨憺を極め、八部落を全滅せしめ、百四十人の死傷者を出せり、その爆発の数日前より、地震頻発し、岳上は多少崩壊を認められ、海岸には熱湯湧沸し、旧噴火口よりは白煙を揚がる等、刻々容易ならざる現象なりしを以って、村長は、数回測候所に判定を求めしも、桜島には噴火なしと答う。故に村長は、残留の住民に、狼狽して避難するに及ばずと論達せしが、間もなく大爆発して測候所を信頼せし、知識階級の人却て災に投じ、漂流中、山下収入役、大山書記の如きは終に悲惨なる殉職の最後を遂ぐるに至れり。
本島の爆発は古来歴史に照らし、後日復亦免れざるは必然のことなるべし。住民は理論に信頼せず、異変を認知する時は、未然に避難の用意、尤も肝要とし、平素勤倹、産を治め、何時変災に遭うも路頭に迷はざる覚悟なかるべからず。
大正十三年一月 東桜島村