赤穂浪士大石良雄が吉良義央を討ったのは,元禄十五年十二月十五日早朝のことだった.この日は,当時西洋で使われていた暦では1703年1月31日に相当する.その前々日(十二月十三日)に大雪があったことが,「12月にしてはめずらしく」という形容句を冠して語られることがあるが,現行のグレゴリオ暦では1月29日に相当するから,とくに異常だとはいえない.南関東で降雪が起こりやすい季節の中に十分はいる.この時代,日本では太陰太陽暦を使っていたが,西洋では太陽暦を使っていた.このとき和暦は西暦から1ヶ月半も遅れていた.
さて,この討ち入りの日を英文で表記するときにはどう書くのが適当だろうか?
January 31, 1703 (1)
が望ましいのは当然だが,そのとき使われていた和暦で月日を表記する慣習が日本史学界にはあるという.師走の押し迫ったころに討ち入ったという状況設定は,たしかに忠臣蔵に必要不可欠な条件だろう.このことを重視する日本史家は,和暦をそのまま英文表記したあと,元禄十五年を1702年に置き換えて,
December 15, 1702 (2)
と表記することが多いらしい.しかし,これはあきらかな誤りである.何の説明もなく1702と西暦年で表記されたときの月日は(当時西洋で使われていた)太陽暦だと解釈する以外ない.
元禄十五年の前10ヶ月半が1702年に当たるからといって,赤穂浪士の討ち入りが1702年に起こったと読めるように書くのは不適当である.史実は1703年だった.
日本史家の慣習にも配慮して正しく表記するには,いったいどうしたらいいだろうか?
私は,次の表記を提案する.
December 15, Genroku 15 (1702-1703) (3)
Genroku 15だけでは,それが西暦何年に相当するかわかりにくいから,西暦相当年を括弧書きで付す.このとき,前10ヶ月半が合致する1702とだけ書いてすまさずに,後1ヶ月半が合致する1703も書く.暦の知識を少しでも持っている人がDecember 15をみれば,それが1702年でなく1703年らしいことを容易に想像して,必要とあればみずからチェックするにちがいない.
西暦換算の労力をいとわない日本史家には,次のように表記していただきたい.これがベストであることはいうまでもない.
December 15, Genroku 15 (January 31, 1703) (4)
まとめ:
日本史の月日の英文表記は,(1)または(3)または(4)のようにするのがよい.(2)は誤りであるから,しないのがよい.
付録:
和暦と西暦の関係は,単純な換算式で表現できない.換算するには,たとえば『日本暦日原典(第4版)』(雄山閣)などの対照表をこれまで用いてきた.しかし最近は,パソコンでこれを迅速にやってくれるソフトウエアが出現した.そのひとつである「こよみちゃん」(http://www.nagi-p.com/) は,インターネットでダウンロードできる.