2.吾妻川

長野原までの区間


吾妻渓谷


中之条盆地

中之条盆地内の原町村・岩井村・中之条村での被害は軽微だった.ただし岩井村で1人の流死者が出たことが,天明三年八月岩井村名主平治右衛門らが稲垣藤四郎に宛てた願書の記述から確かである(萩原史料5-214).

幕府から派遣された根岸九郎左衛門は,原町に本拠を置いた.

原町村では犠牲者がひとりもなかったにもかかわらず,吾妻町原町の善導寺門前にはたくさんの供養塔がある.天明八年(六回忌),文化二年(二十三回忌),天保三年(五十回忌),昭和七年(百五十回忌).善導寺門前は,吾妻川が中之条盆地に出て扇形に広がるちょうど要の位置にある.

吾妻町岩井の観音堂.絵図には,この観音堂のすぐ下まで熱泥流がやってきたように描いてある.元禄十四年(1701年)や天明元年(1781年)と書かれた墓石がある.岩井村では,わずかひとりの犠牲者が出ただけだった(萩原史料5-214).

榛名山西麓を回って吾妻川に合流する温川を五十町ほど遡ったという.「吾妻川の中程へおつる,ぬる川と云えるは,五十町程泥さかのぼりしといえり」『天明浅嶽砂降記』


利根川合流点までの区間

東村新巻の雷神岩.吾妻川に突き出した岬の上にある.

中之条盆地ではさほど大きな災害を引き起こさなかったが,不思議なことに利根川に合流する直前で再び大勢の犠牲者を出した.

渋川市の「金島の浅間石」.これも吾妻川に突き出した岬の上にある.

渋川市川島で厚さ2メートルの熱泥流堆積物の下から1997年にカワスクネ神社が発見された.石の角がとれてなくて,まるで最近つくった境内のようだった.

渋川市川島のJR吾妻線北側では,砂利採取のために畑の中にしばしば大きな穴が出現する.その断面を見ると,吾妻川が運んだ円礫層の上に6世紀の二ツ岳軽石を多量に含む砂礫層があり,それを鎌原熱泥流の堆積物が1〜2メートルの厚さで覆う.熱泥流の堆積物の直下に土壌はほとんどみられないが,この平坦面の上に大勢の人が暮す集落があったらしい.ここ川島村で,熱泥流にのまれた人は100人以上.その多くは亡くなったが,なかには行徳まで流れついて,数日後に生きて村に帰った人もいるという.この災害のあと,街道の付け替えがあった. 「(川嶋村)上ヘ上り家ヲ作ル.下タノ本道潰レ上ヘノ祖母嶋海道今ハ本通リニナル.」(『天明浅間山焼見聞覚書』;萩原史料2-157)

渋川市川島の流死者供養石仏.黒岩の上に15体の石仏がのせられている.

子持村北牧の興福寺入口に記念碑がある.幕府秘書監林■撰文により文政十二年正月(1829年)に建立された.犠牲者数を1370人としている.段丘崖を背にするこの興福寺も泥流に飲み込まれたという.

人助けのカヤの木.子持村北牧の国道353号の北側にある.この木に登った数十人の命を救ったという.北側の段丘崖まで200メートルほどある.ここはかつての中洲の末端にあたる場所だったようだ.カヤの木の形がやや不自然なのは,熱泥流によって樹幹が地下に数メートル埋もれたためだろう.碑文には,地下約六メートルとある.へだまの木ともいう.