1783年軽石のうち北東方向に述べる副軸は,1783年7月27-29日に降ったらしい.
・黒豆河原
・狩宿(327)
・長野原久々戸遺跡
・林中棚遺跡
に堆積物がある.しかし,その線上から北に外れた赤川土取り場にはない.
7月中下旬におこなわれる一番ザクの中にその軽石は見られないが,8月初めに行われる二番ザクの中にその軽石が見られることがある.このことから,7月下旬に降下したらしいといえる.-----関・諸田(1999.3.25)群馬県埋蔵文化財調査事業団研究紀要16
早川(1995)の地学雑誌巡検案内の表2に,「7月17日北東方向へ軽石降下」とあるのは,北方向の誤り.安井ほか(1997)が記載したNNW軽石にあたる.
萩原史料5巻の268-269ページに遠隔地の降灰記録がある.
菊池勇夫(1995,県立歴史博物館企画展,10ページ)に以下の記録が紹介されている.
どうやら六月二十九日(7月28日)の晩が最盛期だったようだ.
1)NNW軽石 1783.7.17(天明三年六月十八日) 佐渡降灰
2)NE軽石 1783.7.27-29(天明三年六月二十八日〜七月朔日)7.28夜が最盛期 仙台・盛岡降灰(火山毛)
3)ESE軽石 1783.8.2-8.5(天明三年七月五日〜八日)8.4夜が最盛期 江戸降灰(火山毛)
1)荒牧(1993)と田村・早川(1995)が史料指摘.安井ほか(1997)が堆積物確認
2)黒豆河原の軽石堆積物は水上の時代?から知られていた.荒牧(1968)は,等層厚線図にそれを表現した.安井ほか(1997)が北軽井沢で確認.狩宿327にもある.史料は安井ほか(1997).その後,関・諸田(1999)が,長野原の遺跡で軽石確認.荒牧(1993)は1783.7.17の噴火と考えた.
3)堆積物は1783年から知られていた.荒牧(1993)と早川(1995)と安井ほか(1997)が史料解釈.ほとんど同様の結論.
歴史地震研究会(2000年9月長野市で発表.予稿集あり)