1998.10.27
日曜日に行田市郊外にある埼玉(さきたま)古墳群へ,稲荷山古墳とそこから出土した鉄剣を見に行きました.
さきたま資料館に展示されている鉄剣は,あいにく来週からの特別展の準備のためにみられませんでしたが,資料収集と稲荷山古墳12m登頂を果たして帰ってきました.(図:丸墓山古墳頂上からみた稲荷山古墳全景)
鉄剣に書かれた115文字の冒頭に書かれている「辛亥年」を471年だと思うことによって,東日本の古墳時代の暦年記述がすべて支配されていると言ってよいと思います.だから,そのおおもとの実物を見に行ったのです.
ことは古代史学と考古学の問題だけに留まりません.史料火山学にとってこれは重大問題です.なぜなら1500年前頃に榛名山で起こった二度の噴火の年代が,この「辛亥年」の解釈によって,6世紀の第1四半期と第2四半期に決められているからです.
榛名山の軽石は東北日本南部の火山のほとんどを串刺しにして,仙台にまで達しています.赤城山・燧ヶ岳・日光白根山・男体山・高原山・那須岳で私は確認しています.磐梯山・安達太良山・吾妻山・蔵王山でもよく捜せばみつかるでしょう.あるいはすでにみつかっているかもしれない.
このように榛名山の軽石は東北日本南部における鍵層としてたいへん重要で,その地域の編年に大きな力を発揮しています.この波及効果は,古代史学・考古学にまた戻っているし,史料地震学の分野にも及んでいる.
まず,鉄剣についてわかったことを書きます:
さて,「辛亥年」ですが,471年の前後には(60年に一度回ってくるから)411年と531年があります.411年と考える古代史学者はいまほとんどいないらしい.531年と考える人はいくらかいるらしいが,471年説が有力だとのことです.
そう思う理由は,概略次の通りらしい:
11)と13)の妥当性を私は評価できません.これから勉強します.
この鉄剣と榛名山の噴火の関係を考えるまえに,土器形式による編年について説明しなければなりません.土器はその形態(形式)によって分類されていて,その出土層準から順番がわかっています.群馬の土器は,以下のように編年されています.
土器形式というのは,およそ25年を単位に更新されるもののようです.それは一世代の年数にほぼ相当します.親から子に技術が伝達されるときに形式が変わると考古学者は考えているふしがあります.
榛名山の二度の噴火のうち,初めの噴火で放出されたFA火山灰は群馬の土器形式IIIの層準に挟まれています.あとのほうのFP軽石は土器形式IVの層準に挟まれています.FA, FPの層位は多数の遺跡で確かめられているらしく,それら相互間で矛盾があるとは聞いていません.またFAとFPの時間間隔も,榛名山周辺でのクロボク中での産状や尾瀬ヶ原の泥炭中での産状から推定される20-30年の時間とたいへんよく合うように思われます.
ということで,榛名山の約1500年前の噴火が6世紀の前半であることはかなり確からしいようにみえます.しかし,ここに理学の成果を入れてみるとちょっとした矛盾があらわれます.FA,FPとも炭化木を含みますので,その放射性炭素年代がいくつか測られています.それらの中で学術誌にきちんと報告されたものの数は多くないのですが,ざっと見渡すと,ほとんどの測定結果が6世紀より古く出ています.もちろん暦年補正した値についての議論です.むしろ5世紀に集中するようにみえます.
ここで稲荷山の鉄剣の話に戻ります.鉄剣は30年前に発見されたものです.そして115の金文字は20年前に発見されました.どちらの機会にも,稲荷山の鉄剣あるいはそれと同時に出土したものの放射性炭素年代が測定されたことはないらしい(高橋一夫・副館長談).いまは質量分析計が進歩して,ごく微量の炭素でも高精度で年代測定ができるようになりました.また暦年補正カーブもよいものがつくられています.ちかぢか国立文化財研究所で保存状況の検査を行う予定だそうですから,この機会に鉄サビあるいは副葬品の中から適当な試料をみつけて放射性炭素年代を測ってみたらいいと思います.文献史学とは別の,独立のデータが何を語るか興味があるところです.
古墳時代と榛名山噴火の暦年代観の信頼性をより高めるには,
などの古代史学の通説の根拠を私たち火山学者もよく勉強する必要があります.
榛名山の噴火年代を理学的に決める方法としてもうひとつ樹木年輪を使う方法があります.1500年も生きてきた巨樹を榛名山の近くでいまみつけるのは(絶望的に)むずかしいでしょうが,1500年前の噴火で倒された巨樹がFA堆積物あるいはFP堆積物の中からみつかるかもしれません.そういう巨樹が手に入れば樹木年輪で暦年がピタリと決まるかもしれません.鳥海山の象潟岩なだれの年代が紀元前466年と決まったように.
1998.11.23
土曜日に,さきたま資料館に再度行って,今度は鉄剣をみてきました.いま「古代金石文と倭の五王の時代」という特別展をやっています.入館料は50円です.12.6まで.ただし11.24と11.30は休館です.
なお,11.28に大宮で「シンポジウムここまでわかった!稲荷山古墳」があるそうです.問い合わせは,さきたま資料館0485-59-1111.
この問題に関して考察を進めました.
熊本県の江田船山古墳から出土した銀錯銘大刀に「獲□□□鹵大王寺」と刻まれています.稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にある「獲加多支鹵大王寺」と同一人物だと思われます.つまり,この時代,熊本県から埼玉県に至る広い地域に権力を及ぼす大王がいたと考えられます.その大王は,当時奈良県に住んでいた天皇だとみなすのが妥当だと思います.つまり「獲加多支鹵大王寺」は,関東の王ではなく,当時奈良で日本全体を治めていた天皇の誰かだと思うのが妥当だと思います.
なお,江田船山古墳の銀錯銘大刀の「獲□□□鹵大王寺」は反正天皇ではないかとかつて考えられていましたが,稲荷山古墳の金錯銘鉄剣の発見以後は,雄略天皇だと考える人が多いようです.どうしてそう変更されたのか(私は)まだ理解していません.
金錯銘鉄剣をつくらせたのは確かに乎獲居臣ですが,乎獲居臣が稲荷山古墳の被葬者かどうかは確かでありません.稲荷山古墳の被葬者は,中央豪族から鉄剣を下賜されたのかもしれません.この点は,古代史学界で現在も論争中だそうです.
確かなことは以下の二点です:
鴻巣市の新屋敷遺跡で,稲荷山古墳出土と同型式の土器が榛名山の火山灰に覆われていることを,高橋副館長から再度教えてもらいました.ですから,いま確認できる事件の発生順序は以下です: