鬼押出し溶岩の表面には溶岩塊ばかりが見えるが,流下しているときには内部に連続した高温溶融体(central pasty layer) があったにちがいない.表層の溶岩塊を取り除けば,それが冷却固化した緻密な岩体を見ることができるはずである.
吾妻火砕流は音もなくそっと流れ下ったらしい.樹木をなぎ倒すことなく,立ったまま焼いて樹型を残している(地点8A).取り込んだ小枝が燃焼して発生したガスによってつくられたパイプ構造が堆積物の断面に1994年まで確認できた.
鬼押出し溶岩がいま埋めているこの深さ40mの馬蹄型の谷(地点8B)が,1783年8月5日10時に何らかの作用で瞬時に形成されたことによって,鎌原岩なだれと熱雲がほぼ同時に発生した.この谷は北へ向かって深さを減じ,プリンスランドふきんで消滅する.そこから北は鎌原岩なだれの堆積域である.
鎌原岩なだれと熱雲の発生に関しては,次のような新しい見解を私はもっている:8月4日16時から訪れた噴火のクライマックスでは,火口の上に高いプリニー式噴煙柱が立って藤岡へ軽石を降らせたが,それと同時に,マグマが火口縁の北側低所から流れ出して鬼押出し溶岩として山腹を下っていたと考える.現在の火山博物館のすぐ西には当時柳井沼とよばれる湿地があり(山田ほか,1993;井上ほか,1994),8月5日10時に起こった強い地震でその付近の山体の一部が崩れて岩なだれが発生した.この崩壊は,すでにそこまで達していた鬼押出し溶岩流内部の高温高圧部を急激に減圧させ,破壊的な熱雲を発生させた.
火山博物館付近では,ガラス質の砂礫からなる厚さ50〜200cmのプレー式熱雲堆積物を確認することができる.この堆積物の厚さは,わずか500mしか離れていない民営の鬼押出し園で10cmに減少するから,火山博物館付近でこの堆積物を残した爆発が発生したと考えるのが妥当である.
北側からみた浅間山と鬼押出し溶岩流
天明三年(1783年)の噴火で浅間山の山頂火口から北へ流れ下った鬼押出し溶岩の流出の様子は,不思議なことに,天明噴火を記録した膨大な史料の中にみつけることができない.鬼押出し溶岩の正確な噴火日時はまだわかっていない.