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『日本書紀』に、「十四年春・・・三月・・・是月灰零於信濃国草木皆枯焉」とある。この降灰記事は、小鹿島 果(おがしま はたす)(1893)によって「天武天皇十三年三月、信濃浅間山噴火、雨灰草木皆枯(日本書紀)」と紹介された。つまり、彼は原文には書かれていない「浅間山」という三文字をそこに挿入したのである。信濃国(いまの長野県)にこの降灰をもたらした火山が浅間山である可能性はもちろん否定できない。しかし、草木を枯らすほどの顕著な降灰はおそらく高い噴煙柱が立ったことを意味するだろうから、浅間山から噴火したのならその灰は早春のつよい西風に吹かれて信濃国ではなく上野国(いまの群馬県)により多く降ったはずである。主に信濃国に降灰がみられたのであれば、その給源火山はより西方に求めるほうが自然だ。たとえば新潟焼山・焼岳・乗鞍岳・御岳からの降灰であった可能性が検討されるべきである。 |
大森(1918)もこの降灰記事を浅間山噴火の項の冒頭におき、「天武天皇十三年三月(685年4月)是月灰零於信濃国、草木枯焉(日本書紀)」と、注釈なしで、書いている。以後この見解は定着して、浅間山最古の噴火記録を685年とみなした文献が数多くある。しかし、上に述べたように、685年降灰は浅間山からでない可能性がつよい。浅間山の確かな噴火記録は、平安時代1108年が最も古い。 |
なお、小鹿島(1893)と大森(1918)が天武天皇十三年と書いているのは、彼らが壬申の乱における弘文天皇即位を認めて、『日本書紀』に書かれた年数から一減じて年紀を表記する方法をとったからである。現在の日本史学界では、日本書紀の記載の通り天武天皇十四年と表記するのがふつうである。西暦では685年に相当する。 |