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弘安四年六月九日(1281年6月26日)に浅間が噴火したという記事は、天明三年(1783年)の噴火記録を書いた『浅間大変記』とその類書の冒頭に書かれている。すなわち、それは噴火から500年も後になって書かれたものである。平田篤胤(1776-1843)の『古史伝』に書かれている記事もたいへんよく似ているから、これも『浅間大変記』を元に書かれたにちがいない。 |
「浅間山ハ此度初て焼出し候にてもなし。昔弘安四年六月九日の暮方、山より西に黄色之光り移り、同夜四ツ時焼出し、信州追分、小諸より南へ四り余の間灰砂降り、西に海野え続き田中之辺迄今に田地火石おし出し置、北に山麓迄おし出し、其所を石とまりと言習いせり。人生百歳をたもつ者なけれは知らす。」(浅間焼出山津波大変記) |
「追分・小諸より南四里余りの間砂灰ふり、大石今にあり、北は山の麓まで押出して、今に此所を石どまりと云う」(古史伝) |
これら史料がいうところの場所のいずれにも、そのような噴火堆積物をいま見つけることができない。「石とまり」という地名も特定することができない。この噴火史料はまったく信頼がおけないものか、あるいは事実に基づいているとしても、M2以下の小さな噴火を記録したものであろう。 |