1783年8月4日午後に山頂火口から北に流れ下った吾妻火砕流がどこまで達したかを明らかにすることは、浅間北麓の防災のためにもっとも重要な研究のひとつだ。
濁沢の左岸に露出する吾妻火砕流の溶結部(地点27)
 吾妻火砕流は、紀州鉄道軽井沢ホテルの手前で停止した。ホテル敷地は平坦だから、追分火砕流の表面だとみられる。ホテルの山側にある別荘地は起伏に富んでいて、吾妻火砕流の表面の特徴をなす。
 追分火砕流の堆積物はやわらかいため、その表面は平坦になりやすい。900年間に堆積した厚さ9センチ程度レスに覆われているだけでなく、北軽井沢周辺ではBスコリア上部に覆われているから、農地や牧草地としての利用が可能である。しかし200年前の吾妻火砕流の表面を覆うレスは2センチ程度しかなく、そのうえ溶結しているから地表に無視できない起伏がある。したがって、吾妻火砕流の表面は農地としての利用が困難で、別荘地として使われている。
 赤川支流の谷頭部は、鎌原と北軽井沢を結ぶ道路からも見える。この断面は左岸にあたる。1108年の追分火砕流の上に、1783年の吾妻火砕流がのっている(地点24)。
P1020513s.jpg 追分火砕流の中には、キャベツのようなかたちをしたスコリア塊がたくさん含まれている。ところどころ、高温ガスによって赤や黄に着色されている。

一方、吾妻火砕流は薄くて、1メートルほどしかないが、硬く溶結している。上部は高温時に空中の酸素と結びついて酸化して赤くなっている。断面には直立した細いガスパイプが何本も見える。吾妻火砕流は崖の右手に向かってしだいに薄くなり、やがて消滅する。
P1020511s.jpg吾妻火砕流と追分火砕流の間には、厚さ7センチのクロボクがある。700年の時間が経過したことを示す物証である。
P1020496s.jpg道路反対側の別荘地の小川に露出した断面。追分火砕流の上に、クロボク、白色軽石、赤色火山灰を挟んで、吾妻火砕流がのっている。ここでは溶結していない(地点25)。
P1020499s.jpg40メートルも深い赤川支流が、道路の南側でこのような小川に変身するのは、900年前に追分火砕流が谷に流れ込んで埋め立てたからだろう。現在の谷頭部は、谷地形をいったん埋めた追分火砕流の先端が、900年かけて後退した場所に当たると考えられる。 そして200年前に、吾妻火砕流が同じように低所を選んで流れてきて、ここで止まった。
東では、浅間牧場交差点まで到達している。吾妻火砕流に特有の赤くて丸いパン皮の岩塊が表面に濃集している。しかし、この付近の吾妻火砕流は顕著な末端崖をつくっていないから、追分火砕流との境界を見分けるのは簡単ではない(地点29)。
前掛山斜面に貼り付いた吾妻火砕流
前掛山の斜面に吾妻火砕流の溶結部が薄く貼り付いている。右から手前に流れ下っているのは鬼押出し溶岩。右上に千トン岩がみえる。
上の舞台溶岩の上を通過した吾妻火砕流
六里ヶ原に広がった吾妻火砕流の表面には、このような赤くてひび割れた特徴的な岩塊がたくさんみられる。
P1010257s.jpg六里ヶ原の西に高さ50メートルの台地がある。上の舞台溶岩だす。この上にも同じ岩塊がたくさんみつかる。吾妻火砕流はこの高台の上も流れ下ったことがわかる。遠くに鬼押出し溶岩が見えている。
P1010280s.jpg上の舞台溶岩の西端は吾妻火砕流に覆われていない。向こうに見える森が覆われなかった領域だ。
P1010272s.jpg森の中に足を踏み入れると、このように下草がうっそうとしている。一方、吾妻火砕流が通過した領域はまだ表土にほとんど覆われていない。砂礫が露出している。部分的に、ガンコウランやミネズオウなどの矮小低木がみられるだけだ。
大小の粒子から構成される火砕流断面
 岩は硬いが、大小の粒子からなっているからこれが溶岩流ではないことがわかる。マグマが爆発によって粉砕されたあと、一団となって地表をはって流れた。これが火砕流だ。ここに定着したあともまだ高温だったため、再びくっついて硬くなった。粒子の角が取れていることに注意。流下中に互いにこすれて丸くなった。
鬼押出しスキー場に吾妻火砕流がない理由
P1030067s.jpg 火山博物館に隣接するスキー場の西端の崖をすこし掘ってみた。天明の地表の上に、白い軽石が薄くあって、その上にするどい稜をもったガラス質の岩片が重なっている。吾妻火砕流の堆積物がここにまったくないことが重要である。北山腹を流下中の鬼押出し溶岩が障壁になって、スキー場に吾妻火砕流が流れ込めなかったのだと解釈するしか、吾妻火砕流の堆積物不在は説明できない(地点56)。
火山博物館駐車場の南壁を観察すると、東半分には、上部に吾妻火砕流の堆積物が認められる。鬼押しハイウエイとの立体交差点には、厚さ5メートル以上の強く溶結した吾妻火砕流が露出している。スキー場は、これらの地点よりむしろ低所にあたる。
もし鬼押出し溶岩が吾妻火砕流のあとに流れたのなら、低所を選んで流れた吾妻火砕流の後を追って同じルートを流れたはずである。実際の両者の分布は相補的である。
鬼押出し橋の下は吾妻火砕流
鬼押出し橋の東詰の崖をつくる溶結した火砕流は何か?(地点53)
P1030053s.jpg崖を下って、火砕流の下を掘ってみた。天明の白い軽石からなる薄層を敷いて、クロボクが出てきた。吾妻火砕流でした。クロボクの下には、追分火砕流がある(地点56)。
西の吾妻火砕流
地表直下にある厚さ50センチほどが吾妻火砕流だ。浅間山頂火口から4.8キロの距離にある(地点49)。
P1020858s.jpg沢を下ると、溶結部分もみえる。
P1020851s.jpg吾妻火砕流の堆積物は厚さ5センチの白色軽石層を敷く。最大粒径は1.5センチである。これは、田代・大笹・大前・鎌原に小石が降った記録がある六月十八日(1783.7.17)の堆積物だと思われる。その下に、20センチのクロボクを挟んで追分火砕流(B)がある。クロボクのちょうど真ん中には厚さ3センチのA'軽石層が挟まれている。(2008年6月21日文章修正)
国指定特別天然記念物「溶岩樹型」は、西の吾妻火砕流が森を焼いてつくった自然の造形である。西の吾妻火砕流の先端や横の広がりを、表面地形から決めることはむずかしい(地点51)。
 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。