前掛山の山頂には直径1.3キロの火口がある。平安時代1108年噴火の火口だ。江戸時代1783年の噴火でその中に釜山というスコリア丘が生じた。釜山の中央にも直径500メートルの火口が開いている。
IMGP0623s.jpg 釜山の一部は、前掛火口からはみ出して、北側斜面の上に乗っている。その部分の下半は(スコリア丘がいつもそうであるように)高温酸化して赤くなっている。ここでスコリア丘を破って、鬼押出し溶岩が釜山火口から北側にあふれ出した。その際に、スコリア丘がこわされて大小のブロックとなり、溶岩流の表面に浮かんで下方に運び去られた。鬼押出し溶岩の表面に見られる赤みを帯びたスコリアラフト(いかだ)はこうして生じた。
(地点64)
釜山の形成位置と南斜面の熱変形
釜山の底径は1キロメートル、高さは100メートルである。前掛火口の中心から北側にずれた位置に生じたため、成長開始後まもなく北側斜面が前掛斜面と一致してしまい、北側への成長が阻まれた。釜山の北側火口縁は他の方角のようには高くなれなかった。この結果、1783年噴火のときにこの火口から発生した流れは、樽木の一番低い部分から水がこぼれ落ちるように、すべて北側へ向かった。鬼押出し溶岩と吾妻火砕流である。
南側への成長は前掛火口原を越えることがなかった。釜山の南斜面と前掛山の南斜面はいまでも食い違っている。釜山の斜面は前掛火口原の上で終わっている。釜山の南斜面は安息角(あんそくかく)の崖錐(がいすい)斜面だけで構成されているのではなく、標高2480メートル付近に緩斜面が存在する。左の地図に赤く着色した部分だ。これは、内部のまだ熱い岩石が堆積後に重力の作用でゆっくりと変形して生じた地形である。内部変形によって南側へ移動した距離は100メートルほどである。  
IMG_0251s.jpg浅間園Dコースの見晴台から見た浅間山頂。スロープを観察すると、次がわかる。左右は前掛山の直線的斜面である。たび重なる落石がつくった。前掛山の上に釜山がちょこんとのっている。釜山の斜面は直線的でない。高温のため内部変形してつぶれている。鬼押出し溶岩は釜山を壊して流れ下っている。吾妻火砕流がその一部を覆う。  
7月17日 六月十八日 軽石 佐渡降灰
萩原史料5巻の268-269ページに遠隔地の降灰記録がある。
「六月十九日夜佐渡中灰降事夥敷」 『 佐渡年代記』

田代・大笹・大前・鎌原に小石が降った六月十八日(1783.7.17)と一日ずれる。しかしこの史料はそのあとの激しい噴火を七月九日としているから、一日違いは誤記だと思われる。

堆積物は、東泉沢上流にあたる地点49に露出する吾妻火砕流直下で観察することができる。厚さは5センチで、最大1.5センチの白色軽石からなる。

7月28日 六月二十九日 軽石 仙台盛岡降灰 火山毛
  • 片蓋川
  • 狩宿
  • 長野原久々戸遺跡
  • 林中棚遺跡
    に堆積物がある。しかし、その線上から北に外れた赤川土取場(地点23)にはない。
 7月中下旬におこなわれる一番ザクの中にその軽石は見られないが、8月初めに行われる二番ザクの中にその軽石が見られることがある。このことから、7月下旬に降下したらしいといえる。-----関・諸田(1999.3.25)群馬県埋蔵文化財調査事業団研究紀要16
萩原史料5巻の268-269ページから
出羽国 「天明三年六月二十九日暮七ツ半時南風強く白砂降ること夥し」 『最上郡年代記』 
会津地方 「天明三年六月廿八日より灰降り申候」 『孫謀録』 
「七月朔日、朝より風雨時化、今朝灰降り」 『大槌記録抄』 
菊池勇夫(1995、県立歴史博物館企画展、10ページ)に以下の記録が紹介されている。
仙台市 六月二十九日夜 七月八日九日 『諏訪神社筒粥記』
北上市 六月二十九日の暮れ頃より夜四つ時(22時)まで 『紙ノ屋万日記帳』
東和町 二十九日晩 火山毛 『大図日記』
さらに盛岡城まで届いたらしい。『篤■家訓』

どうやら六月二十九日(7月28日)の晩が最盛期だったようだ。
峰の茶屋にある東大火山観測所の敷地内に露出する1783年軽石
(地点67)
8月2日 七月五日 軽石 オレンジ色火山灰
 峰の茶屋に露出するA軽石の下半分には、軽石のサイズの違いがつくる縞模様がみえる。8月2日昼から始まったプリニー式噴火が50時間かけてつくった降下堆積物である。噴煙柱がまだ不安定で高度を頻繁に上下したために、軽石のサイズの違いが生じた。
 軽石層の間に挟まれる複数の薄いオレンジ色火山灰は、8月4日午後に発生した吾妻火砕流から巻き上がった火山灰が降り積もってつくった。
8月4日 七月七日 軽石 江戸降灰 金沢や京都にも音が届いた
 8月4日夕刻、軽井沢に人の頭ほどの軽石が降った。これに打たれて丈二郎と寅之助という二人の青年が即死した。これによって、軽井沢の宿はパニックになった。人々は争うように、南へ逃げたという。
 峰の茶屋の軽石層にも、この層準にとりわけ大きな軽石が含まれている。その晩がプリニー式噴火のクライマックスになった。噴火は翌朝には終息した。A軽石上半は10時間の降下堆積物である。
鳴動が及んだ範囲
金沢・名古屋・京都で浅間山の鳴動を感じた記録が残されている。名古屋と京都では、軽石噴火だけでなく、8月5日10時に鎌原土石なだれ発生時の鳴動を感じたらしい。
加賀(金沢)『加賀藩史料』萩原史料4.318
7月28日 六月二十九日 雷鳴
7月29日 七月一日 山鳴
7月30日 七月二日 山鳴
7月31日 七月三日 大鳴
8月1日 七月四日 なし
8月2日 七月五日 なし
8月3日 七月六日 山鳴
8月4日 七月七日 山鳴り強い
8月5日 七月八日 断続的に鳴動するが,弱い.
名古屋『さたなし草』『年号記』武者史料2.731
7月28日   六月二十九日 鳴動
7月29日   七月一日 昨日と同様
7月30日   七月二日 鳴る
7月31日   七月三日 少し鳴る
8月1日  七月四日  
8月2日  七月五日  
8月3日   七月六日 鳴動
8月4日   七月七日 一日中鳴り響く
8月5日   七月八日 10時ころ大雷のように鳴り響いた
京都『多忠職日記』萩原史料1.365
8月5日 七月八日0〜10時 地震のように戸襖がひびいた.
「又震動も江戸は少く京へはひびかずして大坂や播州姫路辺抔余程強く轟」『天明浅嶽砂降記』
江戸には火山毛を含む降灰があったが、震動はすくなかったという。江戸や京都よりむしろ、浅間山からの距離が遠い大坂や姫路で鳴動が強く感じられたという。
 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。