天明三年噴火を書き残した史料は多数ある。田村・早川(1995)は、それらを火山学的に解釈して、噴火の推移を構築した。堆積物を扱う地質学の研究では事件の詳細と起こった順番を明らかにすることはできるが、時間間隔を知ることはむずかしい。史料はその時間間隔を教えてくれる。江戸時代後半に起こった浅間山の天明三年噴火は豊富な史料が残っているから、時間情報が詳しく入手できる。その後に獲得した知見を加えて、田村・早川(1995)の結論をわずかに修正した新しい天明三年噴火シナリオが次である。
  • 1783年5月8日に最初の噴火が起こった.
  • 46日間の静穏の後,6月25日と26日に噴火があって,諸国に灰が降った.
  • 20日間の静穏の後,7月17日に北方向に降灰した.灰は佐渡に達した。
  • 7日間の静穏の後,7月25日から本格的な噴火がはじまった.28日が最大で仙台・盛岡に火山毛が降った。
  • 7月31日と8月1日は静穏だったが,8月2日の昼からプリニー式噴火がはじまった.降下軽石の下半部はこのあと50時間の噴火堆積物である.
  • 8月4日の午後、吾妻火砕流が三回発生した.降下軽石の中央やや下に挟まれる3枚のピンク色シルト層は、この火砕流から空高く上昇したサーマル雲から降下した火山灰である.
  • 同じころ南麓の沓掛(中軽井沢)では熱泥流が発生した.
  • 8月4日夜から翌朝までがプリニー式噴火のクライマックスだった.降下軽石上半部がその堆積物である.10時間で降り積もった。このとき軽井沢では,降下軽石によって火災が多数発生した.5日午前8時に噴煙柱がすこし盛り返したが,まもなく山頂火口からのマグマ放出は終了した. 鬼押出し溶岩流は,8月4日午後に吾妻火砕流発生したときにはすでに北へ2キロほど流れ下っていた.
  • 8月5日午前10時ころ,おそらく強い地震動によって,北側山腹の一部が崩壊して鎌原土石なだれが発生した.この崩壊が鬼押出し溶岩流内部の高温高圧部を急激に減圧させて熱雲が発生した.鎌原村を埋没させた土石なだれは、そのまま吾妻川に流れ込んで熱泥流となった.
  • 昼ころ上州(群馬県)では黒い泥雨が降った.夕方には,軽井沢や坂本で泥が降った.
  • 鬼押出し溶岩流の前進はもうしばらく続いた.
  • その後8月15日ころにも噴火があり,山頂火口では10月まで何らかの異常がみられたらしい.
  •  
    浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
    著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
    描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
    ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
    この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
    背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。